Warrior.pngUUの解説 Edit

Jaguar.pngジャガー戦士(アステカ) Edit

アステカの軍制は奴隷兵が戦場で活躍すると平民になり、さらに戦場で武勲を立てると小規模の部隊長となった。
そうして部隊長になると「太陽神の戦士」イーグル戦士か「黒曜石の戦士」ジャガー戦士に割り振られた。
特に後者は黒曜石片を埋め込んだ剣で武装しており、士気の高さもあって非常に精強であったと伝わっている。
この制度は非常に強固かつ合理的であったようで、人口20万という当時のパリに並ぶ強大な首都の維持と発展の一端をこれが担っていたのである。
(なおその首都人口を支えたテノチティタランは湖の中洲にある。Civ5でも湖の中洲に水中庭園を備え伝統をコンプした首都を置けばガンガン人口が増える。)

一方でアステカでも著名な生贄制度を支えていたのもこのイーグル戦士とジャガー戦士であった。
というのもイーグル戦士の守護者ウィツィロポチトリ、ジャガー戦士の守護者テスカポリトカ、共に祭祀として生贄が必要不可欠だったからだ。
そのため頻繁にメソアメリカの他の部族へ侵攻し、奴隷と人身御供を得ていたという。
(余談だがこの制度は後述のローマにおけるレギオンとローマ市民の制度に近い。)

後にコンキスタドールが上陸した時、大砲や小銃を備えた500人の精強なコンキスタに対し、
鋳鉄どころか鉄製の武器も持たず、毛皮と黒曜石の剣で武装した両戦士はもちろん敗北した。

ゲーム内で敵を倒すとHPが回復する能力は「倒した敵を食べている」と誤解されがちだが、史実的には「倒した敵の捕虜を奴隷兵として編入する」である。

MaoriWarrior.pngマオリの戦士(ポリネシア) Edit

「敵を倒して食べる」を常習的に行っていたのはこっちの方。宗教的観点から敗者を食人した。

マオリ族にはマナとタブーという考えかたがある。マナは人それぞれの内にあって力の源となり、位の高い人ほどマナが多いとされた。
このマナを増やす方法は3つで
実の親から譲り受けるか、部族のために何かをするか、死んだ敵のマナを食べて吸収するしかない。
このマナによって行動に制約がかかる事を「タブー」と呼ぶ。禁忌の意味するこのことばも、もとはポリネシア語が語源だ。

マオリ族は、普段はジャガイモ栽培と豚を飼育しながら過ごすが、隣の部族とのいざこざが起きると戦争をし、
負けた部族は全員奴隷になった。先述のマナが高いとされた族長や戦士等は、それを吸収するため勝者によって食べられた。
戦争に勝った部族は奴隷を得て勢力をさらに増す。この戦果が軋轢や食料不足などを生み、さらなる戦乱の種を生むという悪循環が起きた。
このままでは共倒れになるという危機感から生まれたのが「ハカの踊り」である。

互いの軍が向かい合う中、軍全体が同じ動きをしながら相手を罵倒し、「お前を食べてやる」という意味で舌を出す仕草で威嚇する。
そして、負けたなと思った方が軍を引き、勝った方は相手のマナを吸収したのだ、とした。
ハカの踊りをした後も互いに軍を引かない場合、全面戦争に突入した。

それまでの戦争では棒が武器だったが、西洋からマスケット銃が導入されてからはマオリ族同士の戦争は激化し、
多くのマオリ族が消滅しマナを吸収されていき、イギリスが仲介して戦争を終えた時には、両部族は双方に2万人以上の死者を出していた。

また、イギリス商船を購入し、チャタム諸島に殴り込みをかけて住民を全員食べてしまっていたり、
第一次世界大戦で塹壕戦の最中にハカの踊りを踊ったり、第二次世界大戦では北アフリカ戦線で活躍するなど、戦闘民族ぷりをみせた。

Hoplite.png重装歩兵(ギリシャ) Edit

古代ギリシャの重装歩兵。一般的にはファランクスとして知られているが、ファランクスは陣形の名前である。
そのファランクスを担っていた歩兵がホプリタイ(ὁπλίται)である。
その由来は装備している丸い盾「ホプロン」から。

主に都市国家(ポリス)の中流階級以上が構成員で、装備は自腹で購入するため統一した標準装備はなかったが、都市国家ごとによって最低限の条件が存在した。
基本的な装備は青銅製の兜と胸甲、そして膝当て。武装は2.4mの槍と青銅で覆った木製の盾、両刃の青銅の剣である。

上述のように密集方陣であるファランクス陣形を組みながら戦う。とにかくホプリタイを密集させたのである。
右手に長槍を、左手に大盾を持って進軍するのだが、特に弓兵との戦いでは盾で覆われていない右側を守ろうと右斜めに移動する傾向があった。
当然そのままでは陣形が崩れるので、陣形の左手にはルーキー、右手にはベテランを配置して全体のバランスを保っていた。

このファランクス方陣はギリシャ周辺でも広く伝わり、マケドニア王国では6mもの長槍(サリッサ)で陣形を組んだという。
さらに複数の兵科を組み合わせ、軍を2つに分けて相手を挟撃する「鉄床戦術」によりマケドニアは従来のファランクスを圧倒した。
このマケドニア・ファランクスによる覇権は、後にローマ帝国が勃興し4度に渡るマケドニア戦争で属州にしたことで終焉した。

ファランクス陣形は側面と後方からの攻撃に弱く、機動力も遅く、方向転換も難しい。さらに地形が平坦でなければ槍衾が崩れるため威力が減少する。
それゆえに戦争時は、互いの代表者が戦場を決めて、正面衝突する方式をとったため、戦闘時間は1時間前後と短く、死傷者も少なかったとされる。

Immortal.png不死隊(ペルシア) Edit

古代ペルシアの皇室護衛軍。多民族で構成されており、定員は1万人。
不死隊の名前の由来は戦死や何らかの理由で欠員が出た場合に即座に予備兵力から補充して定員1万人を維持するため。
1万人の部隊と予備兵力、標準化された武装と装備を持っており、当時のペルシアの経済力の高さがうかがえる。

武装は木の皮などを編んだ盾と金銀で装飾された短槍、短剣、斧と弓を持ち、射撃戦と白兵戦の両方を行った。
制服として布製の衣装を着ていたが、胸に鉄製の魚燐の防具をつけていた。

軽装が多いペルシャ軍の中で不死隊はかなりの重武装だが、弓矢のみを想定した盾と胴体のみの防具であったため
青銅製だが兜や盾、膝当てで防御力を高め、長い槍で戦うギリシャの重装歩兵と
中東で騎兵隊や、遠距離戦、大規模な軽装歩兵との闘いに特化した不死隊とでは相性が合わず、正面衝突には歯が立たなかった。
それでも勇敢に戦ったことから不死隊の士気の高さをうかがえる。

のちのササン朝ペルシアとビザンチン帝国も「不死隊」という名称に厨二心をくすぐられ、
皇室直属護衛部隊を「不死隊」と名付けた。
その不死隊のうち、全身を鉄製の防具で守り乗馬まで鉄で完全武装させたのが後述の「カタフラクト」である。

PictishWarrior.pngピクト戦士(ケルト) Edit

ピクトはスコットランドでイングランドを何度も略奪してたケルト系の部族である。
ブーディカがいたイケニ族と関係がないどころか、ローマが侵攻するまで対立していた可能性もある。
なぜピクト戦士がケルトのUUなのかは占領地で捕虜を取らず徹底的に破壊と殺戮をする所が同じだからだろう。

古代ケルト系部族の信仰には、切り取った人間の頭には神聖な力が宿るとされていた。
舞台神聖祝典劇『パルジファル』で、聖杯の中に王の頭が入ってる描写があるのは、この伝承からとったものである。
そのため、ケルト族は戦場では敵の首を切り落とし、その血や肉を口にすると、神聖な力が宿り、戦士の位が上がるとされていた。

(なんとなく3つ上の項目でも見た気がする話である・・・)

BatteringRam.png破城槌(フン) Edit

詳しい説明は下記「弓騎兵」を参照。
フン族はその騎行の過程で中国人から攻城技術を教わっており、これがフン族の躍進に一役買ったということは十分に考えられる。

Pathfinder.png先導者(ショショーニ) Edit

ショショーニ族から分派したスー族のシャーマン。名称は「ウィチャシャ・ワカン」(Wichasha wakan)
「ウィチャシャ」は男性を意味し、「ワカン」は説明できない神聖な何かを指す。

スー族の社会は年長者や能力のある若者などの酋長達が集まって会議をし、全会一致か多数決で意思決定する直接民主主義を取っていた。
酋長は、戦闘酋長、狩猟酋長、祭式酋長(ウィチャシャ・ワカン)がおり、その他にも平和酋長、農耕酋長と、とりあえず酋長と付けておけば役職ができる、いわゆる公務員である。
酋長は決して支配者や部族の代表ではない。これが白人には新鮮だったらしく、アメリカの民主主義に大きく影響をもたらした。

ウィチャシャ・ワカン達は「サン・ダンス」を踊り、予言をする役職である。(その他にも様々な儀式を担当する)
サン・ダンスは祭式期間中、外部の部族との接触せず、備蓄した食料を使って4日間祭りを楽しんだ後に、祭りの最後にウィチャシャ・ワカンが祭場の真ん中に来る事で始まる。
ウィチャシャ・ワカンは祭りの4日間、食事と睡眠を断ち、朦朧とした状態で煙草や麻薬を摂取し、槍で自傷し、血まみれになった槍を会場の中央に立て、その周辺を踊った。
極限状態で見た幻覚や、儀式が終わった後の初夢で啓示を受け、この啓示は部族にとって、重要な情報・今後の方針として伝えられた。

とあるウィチャシャ・ワカンは「白人の弾丸は我が部族を避けていくだろうと」と予言したが、もちろんそんなわけなかったので、白人と戦った後にボコボコにされた。

Bowman.pngバビロニア弓兵(バビロニア) Edit

壁画に剣を携帯している事から「なんか接近戦に強そう」というイメージのみの能力が与えられた弓兵。

巨大なバビロンの城壁は弓兵で守られ、難攻不落を誇った。
バビロンの城壁は高さが93m、厚さ24mで、本来は世界七不思議に属する世界遺産級の物だが、ファロスの大灯台に七不思議枠を取られる。
当時のバビロニアの建築技術はずば抜けていて、陶器の技術で焼かれた青いタイルで城壁と門は彩られ、城壁の周りには巨大な堀があった。
堀を超えて都市と繋がる道には頑丈な石橋がかけられ、アスファルトで道は舗装されていた。また、堀に流れる水は、そのまま都市内部に流れる用水路として使われた。
川から水を汲み大規模な灌漑農業を行い、人類史上初めての首都として繁栄を極めた。

征服されてバビロンに連れて来られたユダヤ人は、その豪華絢爛にかなりの衝撃を受け、貪欲と罪悪にまみれた都市として描きながら、その栄華は金属でいうと黄金であり、ペルシャ・ギリシャ・ローマの栄華は鉄であると例えている。
また、聖書に出てくるバベルの塔の話は、バビロニアの神殿ある「ジッグラト」がモデルで、最も大きい物で90mの高さを誇った。
ジグラットの建設現場にはユダヤ人と同じく多くの国の人々が連れて来られ、それぞれ違う言語で話している事からバベルの塔の話は作られた。

さらに、この時代に、すでにバビロニアの人々は電気を利用するほど文明を発展させていた。
1938年、バグダット付近で驚くべきものが発見される。それは中に鉄芯が入っており、鉛で溶接され封してある土器である。
この“電池”は、再現実験で0.5Vの電球を18日間輝かせ続ける事が出来た。
また、1937年に古代のレンズが発見され、この時代にすでにガラスを自在に加工できる技術を保持していた。ヨーロッパでガラスを加工技術を確立するのは16世紀である。

そんなバビロンも、堀を流れる水の都市流入部分を攻略されて陥落したが、その栄華は衰えず、アレクサンドロス大王もバビロンを首都にするなど、メソポタミア世界の中心地として君臨した。
その後、イスラム教のアラブ人によって破壊され、その隣にバグダットが建築され繁栄したが、
数千年に及ぶ大規模な灌漑による土地の塩化で、ジャングル地帯で中東は砂漠化してきており、モンゴルによってバグダットが破壊されると、灌漑施設も破壊され、中東は今のような砂漠地帯となった。

Slinger.png投石兵(インカ) Edit

武器名は「sling」(スリング) 赤ちゃんを抱っこする時に使う布の事もこの武器と形が似ている事から、英語では同じ「スリング」と呼ぶ。

構造は長い紐の中央に頑丈な布や皮で作った袋状の物を取り付けるだけで、かなり単純でありながら強力な遠距離武器。
袋状の布に石や鉛弾を入れて回転させ、片方の紐を放せば「遠心力+加速度」により高速で射出される。
射出された弾は時速140km、有効射程距離は200m、最大射程距離は477m
軽量で、構造が単純なので、その気になれば手の平の容量だけで運搬可能である。

投石具のもっとも注目すべき効果は、この武器は、弓矢や銃弾のような「貫通」武器ではなく、「打撃」武器である事である。
なので、相手が重装備をしていても一定のダメージを与える事が出来る。
射出する投射物も、一定の工程を必要とし、費用がかかる弓や投げ槍、銃と違い、投石具の弾である石はそこらじゅうに転がっている。
効果的な投石を行うためには500g程度の重さの卵程度の大きさが適し、形もラグビーボールのような楕円形の石が適していたが、矢を作るのに比べたらタダ当然であり、
無かったら粘土を固めて作る土弾や、金属を鋳造して作る鉛弾や鉄弾など、弾の製作も可能である。

お婆ちゃんがバトミントンを振れる程度の運動量さえあれば、人を殺傷可能なエネルギーを得られるため、非常にコスパが良い。
また、敵が白兵戦を挑んできた非常時には、石を入れた状態で振り回せば、「遠心力+加速度」で頭蓋骨を容易に粉砕する事が出来た。(じゃあゲーム内で逃げんなよ)

オーストラリアを除く全世界で自然発生的に使用され、歴史上、初めて投石兵で戦場で大きな役割を果たしたのはアッシリアであった。
アッシリアは攻城戦の時に投石兵による高高度射撃で攻城を有利に進めていた(なんでアッシリアのUUじゃないんだよ)

かなりの熟練度を必要としているため、専門傭兵な場合が多くギリシャ時代にはロードス島の投石兵、ローマ時代にはバレアレス諸島の投石兵が有名である。
彼らはペルシャやカルタゴ、ガリアとの戦いで活躍し勝利に貢献した。

逸話として有名なのは巨人兵であるゴリアテを子供のダビデが投石で倒したという逸話である。
大きな大人が投石如きで死ぬなんてと思うかもしれないが、熟練者が使用すれば鉛弾で青銅の兜は貫通し、鉄の兜を付けていても頭蓋骨を余裕で破壊可能である。
そもそも500gの物体が時速140kmで当たったら、死んだという話なので、至極当然の事である。

大変効率的な武器であり、意外と近代まで戦場で見られたが、あまりにも高い熟練度と必要としていた。
投石の回転数や、放すタイミングなど個人差があるため、ひたすら練習を積まなければならず、射出までの統一手順がある弓と比べても、育成がはるかに困難であった。
また、投石するには遠心力を付けるために半径1~2m程の間隔を空けないといけないため、面積当たりの攻撃力は低い。
そのため投石兵を正規軍として運用した事例は皆無に近い。

この投石具の原理は紐の持ち手部分に長い棒を付けてより大きめの石を飛ばす「スタッフ・スリング」や、箱の重量を利用した「トレビュシェット」として戦場で引き継がれてた。

これがインカのUUの理由なのは、西洋の侵略者たちとの戦いで使われたとされているためである。
(比較的紳士的に行われたアステカ征服と違って、インカの征服は徹底的に破壊されたため現存する資料が少ないせいもある)

Atlatlist.png投槍兵(マヤ) Edit

投槍は太古の時代から使用していた投擲武器で、現在一番古いものはフランスで発見された鹿の角で作られたもの。
ローマ軍団が制式採用していた「ピラム」(ピロム)や現代の投槍競技のような手で投げる投槍ではなく、専用の投具を使って投げられる。
この投具は「アトラトル」もしくは「アトゥルアトゥル」として知られている。
例えるならスプーンの匙や孫の手で槍を投げるようなもので、手で投げるより飛距離が伸び、より大きな槍を安定して投げることができる。
そのため、飛ばす槍は一般的な槍ではなく投擲用に最適化されたもので、葦で作られ石や金属の鏃がついていた。毒を塗ることもあったという。

中南米は大型動物が少なく、ジャングル地形のため弓矢のような長射程武器の必要性が低かった。
またあまり力をかけずに投げることができるため、上述の軽量な投げ槍と相まって女性や子供でも投げることができたという。

WarChariot.png重装チャリオット兵(エジプト) Edit

チャリオット(戦車)は車輪の発明とともに始まったとされている。
元は牛などの家畜で牽く4輪の、いわゆる馬車に近いものだったが、後に機動力がある馬を利用した2輪の戦車になった。
なぜ馬に直接乗らずにこのような構造物に乗っていたかというと、当時の馬は品種改良されておらず、
人を背中に載せられるほど体格が頑丈ではなく、また鐙のような乗騎を安定する技術もなかったためである。

この戦車は比較的容易に機動力を得られることから、機動力を生かした遠距離攻撃・一撃離脱戦法を取っていた。
一般的な2輪戦車は馬2頭で引き、戦闘員1人と騎手が1人の計2人で運用され、操縦士のみの場合運送用として使用された。
操縦士は盾で自分を守りつつ、戦闘員は弓や槍で攻撃するスタイルが主流でだが、エジプトでは操縦士が手綱を腰に巻きつけて弓矢で戦闘に参加した。
後に安定性向上のため2輪から4輪が主流になり、衝突力を上げるため戦車が大型化。さらに車輪に鎌を付けて敵陣を切り刻む鎌戦車が出現する。

後に品種改良により直接騎馬に乗れるようになるとそちらに取って代わられる。
しかしそれでも鞍と鐙が無いため騎兵は白兵戦ができず、また槍と弓のほうが強固なためまだ騎兵は補助戦力の位置づけにあった。

もちろんこの戦車は(ゲーム中でもそうであるように)欠点の塊だった。
車両の維持費が高く、戦場も平地以外は不適、急な方向転換をすると転倒し、騎手や馬が行動不能になるとすぐ機動困難に落ちるなど…
後にファランクス陣形が完成し防具の質がが向上すると、欠点だらけのこの戦車は活躍の場を失い、ローマ帝国時代には遊具用として使われた。
戦車が遊具用になったのとほぼ同時期にケルトは戦車を戦場で使用していた。
戦闘用ではなく負傷兵を後方に運び、前線に高位の戦士を運送する役目を担った。

中国においても西洋とほぼ同様の変遷を辿った。
中国に戦車が渡来したのは商(殷)代末期、周代最初期とされている。
御者と共に、矛で近接してきた敵をなぎ倒す兵士と、弩弓で攻撃する兵士の3名が乗り込む。
戦車の車軸には、敵兵や馬の足を切り裂くために刃が付けられていた。
戦車の後方には歩兵が続き、先ず戦車が敵陣に突撃して陣形を切り裂き、出来た裂け目を歩兵がおしひろげていくというのが基本的戦闘であったとされている。
起伏が少なく乾燥した中原において、戦車戦法は非常に有効であったという。

ちなみに車という漢字はこの戦車を象形化したものである。
上下に車輪(=)と、中心に胴体(日)、胴体と車輪をつなぐ車軸(|)で構成されており、
中には馬が戦車を引く姿を象形化した文字も発掘されている。

WarElephant.png軍用象(インド) Edit

象は現存する地上最大の陸上生物である。
象はアジアゾウ、アフリカゾウとアフリカゾウの亜種から独立したマルミミゾウの3種類が現存する。
象の鼻は、鼻と上唇が変形したもので、15万個の筋肉でできており、数百kgの物を持ち上げる事が出来る。また、時速続40kmで走れる。

象は草食で、木の全ての部分を食べる事が出来る。一日18時間を食事に費やし、食べた物を20日かけて盲腸で発酵させて消化する。
発酵時生じる熱により、もっと熱い部位で55℃の熱を発する。熱は耳から発散され、体内温度を36℃に保たれている
吸収効率が悪いため、食べた物も排泄すると、形状変化は少なく、栄養素もほとんどそのままである。
食べる量が多いので、一日2000ℓのメタンガスを排出し、死亡した象はそのガスが排出されないため、パンパンに膨れ上がる。
草食だが、飢餓のあまり人間の村を襲い人を食べた事例もあり、射殺後に腹を空けるとまだ消化しきってない人間の死体が17体出てきた。

天敵は自然界では存在しない。強いて言うなら寄生虫や病、人間の密猟だけが象の天敵である。
体の小さい子供の内は虎やライオン、豹などの危険があるが、群れで生活する性質上、狩りが成功する事はめったに無い。
象が夜目が利かない隙をついた奇襲でたまたま成功する程度である。
ただし、狩りに失敗すると、子供の象は自分を襲った敵の事を記憶し続け、大人になると自分を襲った敵を見つけ次第、大人子供構わず踏み殺し回るようになった事例がある。

猿やイルカに匹敵するほど象の知能が高く、人間同様に喜怒哀楽がある。
密猟によって親の死を目の前にし、トラウマを持った子供の象が、夜中に悪夢にうなされて叫び起きたり、余りの寂しさに人間のまねごとをするなどの事例もある。
象牙の大きい個体であるほど密猟されるため、最近では象牙が小さくなる方向に進化している。

オスの象による連続サイ強姦致死事件もある。象の重さにサイの背骨が耐えれず折れてしまいサイが死亡した。
犯人の象達を調べてみると、彼らは本来違う地域から来たもので、密猟により、生け捕りされた象を自然に帰す過程で知らない土地に移された。
さらに、子供の象のみを自然に帰してたため、成長した若い象達は適切な欲求発散の方法を知らずに育ったため、サイを使って発散していたのだ。
のちに本来いた地域から年長の象を移住させる事で、象のレイプ事件は無くなった。

主にアフリカやインド、東南アジアでのみ生息されているが、昔は中国にも生息されていた。
中国の気候の寒冷化・乾燥化と、農地開拓による森林減少によりへ生息域を南へ南へと後退していった。
殷の時代までは象を置物はリアルに作られており、この時代には象が生息していたとみられ、
周の時代になると、とたんに象の置物が豚みたいな抽象的になっているので、環境変化は殷から周にかけて起こったと見られる。

知能が高く、人間の言う事を理解できるため、古代から人間に飼われ、輸送や建築、戦争に使われた。
アレクサンドロス大王はインド遠征時にポロス王が率いる200頭もの象部隊と遭遇した。(ヒュダスペス河畔の戦い)
ペルシャとの決戦である「ガウガメラの戦い」でも象は15頭いたため、象を知ってはいたが、200頭という規模の象との遭遇はアレクサンドロス大王の軍勢には衝撃であった。
だが、アレクサンドロス大王はギリシャに友好的なインドのタキシラ王国から象兵への対処法を聞いており、無防備の象使いを狙い撃ちする事で象を暴走させた。
暴走した象はポロス軍に突っ込み、味方を蹂躙し、ギリシャ軍は象がポロス軍を蹂躙するのを眺め、象が力尽きた所を攻撃し、軽微な被害で勝利した。

しかし、大規模な象との遭遇は衝撃であり、この先にも8000頭の象部隊がいるという情報により、部下達がこれ以上遠征を反対するきっかけとなった。

(マルミミゾウへと続く・・・)

HorseArcher.png弓騎兵(フン) Edit

説明の殆どはシヴィロペディアにある通りである。

フン出現以前までの騎馬戦術では「鞍」や「あぶみ」に相当する、部分というものはなかった。
初期の騎兵はみな足をプラプラと投げ出し、あるいはOの字状に馬の尻に足を回して引き締めていた。
当然、そんな状態では馬上での直立など無理であり、いわんや弓をつがえることなど無理であった。
(もし可能であったとしても、弓を引くための下半身の引き締めによって馬の体は締められ大変な騒ぎになるだろう)
ゆえに古代の騎馬戦車(チャリオット)などは馬に直接乗らず、車を引かせて運用していたのである。

一方で古代のインド北方に端を発する「あぶみ」の開発は騎馬技術の大きな変化をもたらした。
両の足で踏ん張ることができ、弓を引くための力を馬の胴体ではなく鐙(と馬体をつなぐ紐の強度)から得られるためである。
さらにスキタイ-ゴート族に連なる騎馬民族は小柄なため肉体からの運動エネルギー捻出に向き、また硬い素材としなやかな素材を組み合わせて作られた複合弓を受け継いだことで無類の戦闘力を持ち始めていた。
さらにフン族の現れる前後(~370年、三国志で言えば司馬懿の孫の司馬炎が晋を建国してから100年後)に東方の漢人から攻城技術、つまり衝車や霹靂車などを学んだことで都市攻撃力が高まった。

そしてフン族が現れた。フン族は「小柄」「あぶみ」「複合弓」を武器に西方へ進出し、西欧とインドの間あたりにいるゴート族やブルグント族といった民族を圧迫し、さらなる西方への移動を促した。
これにより人口許容量を超えた小国は自国民を順々に西へ移動させ、それは東欧全域に拡大し、最終的にスカンディナヴィア半島の人間が海上に押し出されてヴァイキングとなった。
これが世に言う民族大移動である。

このフン族の西方侵攻時の最後の王がアッティラである。というよりもアッティラの死でフン族の西方侵攻は止まり、そのままフン族は瓦解した。
しかし彼が在籍した時の侵攻は凄まじく、元よりローマは歩兵中心の鈍重な兵を抱えていたため、フン族の弓騎兵にいいようにあしらわれ惨敗を重ねている。
さらに占領した都市では特に宗教家への虐殺を激しく行い、その虐殺の噂だけで民族大移動を引き起こしたとされるほど徹底した蹂躙を行った。
彼が「神の災い」(flagellum dei)と呼ばれる理由も、まさにキリスト教の信者への、旧約聖書の神のごとき何者も選ばない徹底した破壊を行ったことによるものであろう。

もちろんその最前線に弓騎兵が立ったことは疑いようもない。これら弓騎兵は素早く敵集団に矢を打ち込み、陣形を崩させて士気を失わせ、そこに奴隷などによる歩兵を突っ込ませることを主な戦術とした。
特に本人だけでなく馬を射殺されることで効力を失う騎兵に対して強力な力を発揮し、それらが接敵する前に馬を射殺され、そのまま第二射でとどめを刺されるのである。
また都市に篭もれば兵站は弓騎兵でズタズタにされ、城門などは破城槌でズタズタにされたのである。
こうした機動力のある(弓)騎兵を先行させる運用思想は小銃が本格的に登場する時期まで非常に活躍し、その後のマムルークや火器騎兵(竜騎兵)につながっていく。

Quinquereme.png五段櫂船(カルタゴ) Edit

一口に言えば五段櫂船は三段櫂船の強化型であるが、その実態には、
・従来型である三段櫂船の櫓座を五段に増やし、縦に五本一組として一人に一本の櫂を持った
・三段櫂船の最上部の櫂を、一人ではなく三人で持った(この説だと、内側の漕ぎ手は非常に疲れただろう)
といった、二つの説が存在する。

漕ぎ手は奴隷や捕虜、ギリシャでは無産市民たちであった。漕ぎ手の人数を増やすことは、速力・突撃力を上げるための良い方法ではあるが、
非戦闘員が増える上に重量が増える=武器や戦闘員が減ることをも意味しているので、数を揃えることは難しいといえるだろう。

この時代の海戦の戦法は衝角(ラム)を敵船にぶつけて撃沈させるペリプルスというものである。
この衝角戦術は火器が出現するまで主要な海上戦法とされ、がためにゲーム中は船であってもドッグファイトをするのである。
…といっても、モーションの中では矢を放っているのだが。

Dromon.pngドロモン(ビザンチン) Edit

ドロモン, 或いはデュロモイと呼ばれるこれらの船は, 5世紀から12世紀にかけて, 東ローマ(ビザンチン)海軍の基幹を成す船舶であった.
このドロモン(δρομων)と言う名前はいわば"快速船"と言った意味で, その名の通り軽快な運動性と旋回性を有していたと言う.
一般にラテラン帆とされる三角の帆を装備し, また時代によっては, 喫水下に装着された衝角(ラム)による突撃も可能であった.
しかし基本的な性質は帆と櫂と用いる船―所謂ガレー船―の性質を逸脱するものではなく, またアンゲロス朝期に海軍が放置されるに至り, 時代から取り残されていった.
最終的には東ローマ帝国が海軍を維持する能力を喪失する形で, 地中海から姿を消すことになる.

ドロモン船の構造自体はLiburnaと呼ばれる古代ローマ帝国の船舶を継承したものだが, 時代の進歩とローマ帝国の興亡により, それはやや姿を変えた.
名将ベリサリウスの活躍した6世紀頃は, ドロモン船とは1段櫂船(monoreme)であり, 両舷にそれぞれ25本の櫂を持つ船でしかなかった.
そこから弩砲や弓矢で攻撃を行ったという.
この戦術等はLiburnaとほぼ相似であり, さらに遡れば都市国家時代のギリシャ海軍におけるペンティコントロス(πεντηκοντορος)とほぼ類似する.
ペンティコントロスとは50+櫂の合成語で, そのものズバリ”50櫂船”を指す.
つまり, 6世紀のドロモン船は, 古代の海軍の残り香を色濃く残していたのだ.

これに大きな変化が加わるのは, “ギリシャ火”の導入である.
この液体の焼夷兵器が導入された7世紀, 東ローマ帝国は存亡の危機にあった.
イスラームの勃興により豊かで開発の進んだエジプトにシリアは失われ, 国防の要であった小アジアすら席巻された.
674-678年にかけては連年首都を包囲された. この時切り札となったのがギリシャ火で, ドロモン船に積載されたギリシャ火は, “汚物を消毒”と叫ぶ某モヒカンよろしくアラブの艦隊を焼き払った.
伝説によれば, この焼夷兵器は水をかければ却って激しく燃え上がり, 火を消すには空気を絶つしかなかったという.
そして帝都コンスタンティノープルは制海権を持たなければ落とす事は不可能で, 首都の命運は辛うじて守られた.
この鮮烈なイメージこそ, Civ5のドロモン舟そのものである.

そのあともギリシャ火(と, それを積載するドロモン舟)は帝都防衛の切り札として赫赫たる戦果を挙げ続けた.
それはルーシ・ビザンツ戦争では強襲するルーシの艦隊を消毒し, ブルガリア帝国の攻勢をはねのける助力ともなった.
ただ, ギリシャ火とは決して使いやすい兵器ではなく, 同時に無敵の兵器でもなかった. 敵にめがけて発射する際, 動力としてサイフォンの原理を使用しており, 為に噴出する圧が弱かった.
凪いだ海で使用する際は良かったが, 荒天や荒れた海での使用は, ほぼ不可能だった.
逆風の時に使用すれば, 噴き戻された液体で自爆する事すらあったという.
それでも帝国はこの兵器をドロモンに乗せ続けた.
帝国は英語のByzantineがネガティブな意味を持つにもかかわらず先進国であり, この特殊な兵器を維持し続けるだけの経済力と国力を有していた.
逆に言えば, 先進国だったからこそ仕えた兵器と言えよう.
事実ブルガリア帝国やイスラーム艦隊は度々ギリシャ火(と, ドロモン)を鹵獲しているが, 最後までサイフォンによる射出機構をもコピーできた民族は存在しなかった.

先に上げたような戦役を通じ, ドロモンは大型化の道を辿った.
9世紀頃には二段櫂舟となり, 乗員も増大される傾向にあった.
一部の”重装”ドロモン舟は, 接舷攻撃用の海兵を登場させていたともいう.
このとき橈漕用の人員230名, 海兵は70名かそれ以上と言うから, かつてと比較すれば遥かに巨大化していると言えよう.

なお, 古仏語のdromont, およびそこから借用された中英語のdromondはドロモン船に由来する単語である.
その意味はともに”大型快速船”だとか. これはもしかしたら, 後期のドロモン舟を見たフランク人の率直な感想なのかもしれない.

Legion.pngレギオン(ローマ) Edit

当時のローマでは「ローマ市民権」を持つものと持たざるものは厳格に区別された。これを与えることが奴隷に対しての"アメ"になったからである。
そしてローマ軍団、すなわちレギオーンはそのローマ市民権を持つ人間だけで構成された、つまりローマ人によるローマのための軍団のことを指す。

さらにローマ軍団の中でも階級は厳密に分けられ、中には「元老院議員」という今の"議員"とは意味が異なる位を持つ将官も現れた。
この時代の議員はノブレス・オブリージュ(貴種の義務)の体現者という側面もあり、前線に立って指揮を執ることこそその体現と考えられたのである。

レギオーンはいくつかの兵制改革によって分けることができ、初期の頃は重装歩兵の密集方陣、すなわちファランクスによる大軍団の突撃によって敵を屠った。
しかしローマ帝国が拡大すると長距離を重装歩兵の大軍団だけで押し通すことは難しくなったため、それらを小軍団に分けてそれぞれに指揮官を置くことで柔軟性の拡大と指揮の平易化を達成した。

MohawkWarrior.pngモホーク族の戦士(イロコイ) Edit

モホーク族とはアメリカ先住民族(インディアン)の一部族で、モヒカン刈り(アメリカ英語ではMohawk Hairstyle)で有名な部族である。

剣士というか古代の時代におけるモホーク族に関する鮮烈な記録は残っていない。彼らが有名になるのは17世紀になってからである。
17世紀の北米は、大航海時代が一段落し欧州各国がアメリカ大陸への入植や略奪を企てていた時代である。
この頃ではビーバーの毛皮がシルクハット用の毛皮として珍重されていたが、旧大陸では狩り尽くされていた。
Civ4の高級資源「毛皮」がビーバーだったのはその名残である。
さて、フランスがワシントンの北辺りからアメリカ大陸に入植すると、五大湖やそれを源流とするセントローレンス川の周辺にビーバーを発見した。
やがてフランスはセントローレンス川の河口にヌーベルフランスと名付けた都市を造り、入植とビーバー狩猟の一大拠点とした。

一方、五大湖の特にオンタリオ湖周辺にはイロコイ連邦がいた。
イロコイ連邦はワイアンドット族とモホーク族の部族抗争を両部族の長によって調停し、その後モホーク族が周辺6部族を糾合してできた部族連邦である。
イロコイ連邦は特にオランダ商人とのつながりが強く、この頃発明された最新のライフル銃を毛皮と交換して入手した。
時のフランス政府は銃器の欧州外への輸出を禁止したが、オランダ商人はそれを無視して新大陸に銃を売りつけていたのである。

かくしてイロコイ連邦は銃で武装した戦闘集団となり、周辺の敵対部族を次々と制圧していった。
またビーバーの狩猟にも銃を使用したことでビーバーの数が大幅に減少し、川沿いに勢力を広げていった。
そしてワイアンドット族に突き当たった。ワイアンドット族は上述のヌーベルフランスを通じてフランスと密接に交易していたのである。
もちろんというかなんというか、銃器輸出に規制をかけようとしていたフランスとイロコイ連邦のそりが合うわけもない。
ほどなくしてイロコイ連邦はビーバーやその他の毛皮の利益を独占しようとし、ワイアンドット族やヌーベルフランスへ攻撃を開始した。

この時に活躍したのがモホーク族の戦士である。彼らは何も銃だけで解決する部族ではなかった。
ヌーベルフランスの植民地住民と兵士は大した力を持たなかったため、森のなかを素早く移動し、斧やナイフによる奇襲攻撃で戦果を稼いだのである。
この頃の農園はあちこちに点在しており、それを守っていた軍が組織的に防御できなかったのも致命的だった。

やがてヌーベルフランスの危機を伝え聞いたフランス本国から正規軍が派遣されると戦況は一転する。
正規軍は戦力こそ少ないものの彼らはまずガンガン進撃した後で焦土戦術を行い、インディアンの食料供給を断った。
また現地のインディアンを模倣した服装に改め、彼らがやったように森のなかを素早く移動し、イロコイ連邦の兵士を狩りだした。
その後フランスとイロコイ連邦は和平を結んだが、のちのフレンチ・インディアン戦争ではイロコイはイギリスの側に立ち、その縁でアメリカ独立戦争でもイギリスの側に立った。

KrisSwordsman.pngクリスの使い手(インドネシア) Edit

クリスとはインドネシアのみならずマレーシアやフィリピン南部で使われた短剣である。
短剣と言っても日本人の我々が想像するようなまっすぐな剣ではなく、グネグネと蛇行のように細く曲がった刀身が特徴である。(ガジャ・マダその人が持っている武器がそれである)しかし、ストレートなクリスもあるにはあるそうだ。
クリスを作る際には硬軟様々な鉄が用いられており、そのおかげで波紋ができあがり上等なものだと何層にもわかれた美しい模様ができるという。

クリスは武器として用いられる他に社会にも浸透していた。祭事や式典には男女関わらずに必ず持ち歩き、一振りのクリスがその人の存在証明にもなった。(会議に欠席する際には代理の人に持ち歩かせる事で出席がわりとなるほどである)そして日本における刀と同じように家宝のクリスは子々孫々に受け継がれ大切にされてきたのだ。
このようにクリスはインドネシアの社会で重要な地位をしめていたが、ここ数十年の情報化社会の進展による価値観の多様化や社会の変化でクリスはその地位を失いつつある。そしてクリスを鍛える職人たちも後継者問題に直面しており、日本における伝統技術と類似した道をたどってしまっているのが現状である。

CompanionCavalry.pngヘタイロイ(ギリシャ) Edit

某作品のアニメの影響で歩兵のイメージで広まってるが、れっきとした古代マケドニア騎兵。
名の意味は「王に近い者」。騎兵に限らない王の側近は「へタイロス」。教養のある娼婦は「へタイラ」と呼ばれた。

その名の通り、最初は王の側近の精鋭騎兵だったが、騎兵戦力維持のためアレクサンドロス大王は自由民の中から乗馬技術の優れた者を受け入れ、
征服した中東アジア地域で同化政策の一環で受け入れようとするが、既存のマケドニア出身の兵士の反発により、ごく少数にとどまっている。

それまでのマケドニアの騎兵が偵察任務のみ行っていたものを、アレクサンドロス大王の父、ピリッポス2世によって創設される。
ペルシャの重騎兵から多くの影響を受け、重騎兵として作られた。

ペルシャの重騎兵が主に投げ槍と斧を使った準遠距離戦と乱戦を想定しているのに対し、
ヘタイロイは長い槍を使った突撃攻撃を目指した、世界初のチャージ騎兵である。

アレクサンドロス大王はヘタイロイの一番前で戦ったといわれる。
当時のヘタイロイの戦法は、楔型陣形で後ろに重歩兵を引き連れながらそのまま敵陣に正面からドーン!する方式なので、
前方にいる人はほとんどが戦死するのだが、アレクサンドロス大王自ら一番前を進むため士気は高かったという。

最初期の装備は、青銅や麻で編んだ胸甲と、帽子のような兜、3~4mの長槍と剣であり、上記の戦法がいかに自殺行為か想像して頂きたい。
のちにペルシャ重騎兵の影響を受け、腕と足の防具が追加され、馬にも防具を付けるようになる。

衝突時の攻撃力を上げるために槍を両手で持って速い速度で突撃するため、乗馬技術に優れた貴重な人材を要し、
ギリシャ内の都市国家間戦争が日常化すると、大事な人材をを守るために徐々に重装化する。

しかし、鞍が無い時代に両手で槍持ってチャージできる人材を育成は極めて困難であり、
日常化する戦争で経済力は低下、非ギリシャ人に対する蔑視による非ギリシャ人の登用が避けられ、組織的な騎兵の維持が不可能になった。
そして、王の親衛隊は土地を与えられ、有事の時だけ歩兵として集まる形になり、ヘタイロイは消滅した。

(そう考えるとあのアニメの描写もあながち間違ってないかもしれない)

しかし、ヘタイロイが築いた騎兵の系譜は「カタフラクト」に受け継がれる事になる。

Cataphract.pngカタフラクト(ビザンチン) Edit

上記のヘタイロイの中でも、特に隊前面に配備された、馬の前面に甲冑による重武装を施した騎馬隊のことを指す。
「カタ」(武装)+「フラクト」(囲まれた)という名前が示す通り、鉄製の重武装に加えて弓・剣・槍・盾を備えて突撃する重装騎兵である。
さらに馬の全面に武装を施したクリバナリウスという騎兵もある。
これらは騎射や弓射によって士気を鈍らせた軍に勇ましく突撃し、大打撃を与えたのである。
Civ5ではUUの関係上そういった戦術は再現できないが、その運用思想は「弓で打撃を与えて騎馬でとどめを刺す」という形でCiv5にも息づいている。

当然世界はこれに対抗するためにロングボウや長槍などを開発し、一進一退の攻防を続けていたのである。

AfricanForestElephant.pngマルミミゾウ(カルタゴ) Edit

アレクサンドロス大王の大遠征により強烈な存在感を持つこととなった象はへレニズム世界に急速に普及し、
その鼻の力を利用して石柱を持ち上げるなど建設や運搬、軍用として使われていった。
初期のころはインド象が使われていたが、輸送コストがかかる事から、代替とし北アフリカでに生息していた少し小柄な象(マルミミゾウの一種?)の飼育が開始された。
この北アフリカの象は他種交配が不可能であり、北アフリカの砂漠化、ヘレニズム国家及びローマによる乱獲、10頭中9頭が死ぬ当時の運送状況などを受け最終的には絶滅している。

象兵の用途は、重戦車のように敵陣に正面から突破し、陣形を崩す事である。特に動きの遅い密集陣形を取るギリシャ重装歩兵には鮮烈な相性の良さであった。
古代の人間にとって象は見慣れぬ生き物であったため、初めて見た敵兵に恐怖と絶望を与え、戦意を削ぎ、戦線を崩壊させた。

しかし、時間が経つに連れて象は弱点を発見され打開されていく。(ゲーム内で昇進が受け継がれない理由である)
例えば、象はその重さゆえに方向転換が遅いため、敵陣に突撃しても陣形を変形されて象の通り道を作られると、
そのまま敵をスルーしてしまい、戻ろうとノロノロとUターンする隙を狙われた。
他にも、何かと繊細な生き物で、轟音で暴走、鼻切られると暴走、象使いが死ぬと暴走、火に暴走と事あるごとに暴走しやすいこと、
さらに一日食べる餌も相当で維持費が大変なこと等もあり、戦場での動物兵器の主役は馬に移行し、衰退の一途をたどった。

分隊単位の小規模の部隊で運用され、よく訓練されて緩やかな陣形変更が可能なローマ軍相手には敗戦が多かったため、過小評価されがちだが、
それ以外の相手ならば象を投入した戦は勝利が多い。
実際問題として、突進してくる象を前に、「ハイ、道開けて」「ハイ、象のアキレス腱を切って」と言った所で、最大時速40kmで突っ込んでくる5トン超の巨大生物相手に早々できる事ではない。
参考資料の動画を見ていただければ「あ、無理」と思うだろう。

(参考資料: http://youtu.be/9UPNP6vqli4 )

(ナレースワンの象に続く・・・)

Ballista.png投石機(ローマ) Edit

投石機などの古代攻城兵器の発展には、“ねじりばね”の発見を語らねばならないだろう。

今日私たちが「カタパルト」と呼んでいる一般的なものは、大きな木のスプーンの根元にばねがつけられ、それを木の台座に固定したものである。この古典的攻城兵器に採用されている動力が“ねじりばね”である。

ねじりばねはマケドニアのフィリッポス2世(ギリシャの指導者アレクサンドロスの父)が、学者たちに命じて発明させたと伝えられる。それまでの攻城兵器の動力源は、木などの材質のしなりを利用した伸張ばねだったが、この新発明によって攻城兵器の威力は格段に上がったとされる。ねじりばねの材質ははじめ動物の毛や人間の毛髪であったが、動物の腱が多くなっていった。

このカタパルトを改良したものがローマの投石機である。ねじりばねを2本に増やし、ばねをつけた腕木に弓のように弦を張った。この投石機は攻城用だけでなく、船上にも配備され、海戦の時に使用された。この投石機は、石だけでなく槍のように大きな矢・複数の小さい矢・火炎瓶なども発射させられた。この投石機は今日「バリスタ」という名称が膾炙している。

このような投石機は時代を経るにつれて、携帯できるように小型化されたり、またばねを青銅にされたり様々な改良が加えられた。しかしながらこの兵器は、戦争の拡大を忌避するキリスト教の発展および、ねじりばね式投石機よりも強力な平衡錘投石機――つまりはトレビュシェット――の登場とともに廃れていった。

―――余談ではあるが、ねじりばねの発明より下ること約500年、ギリシャ・ローマよりも遥か東の2世紀の中国で投石機が発明された。この投石機は、長い腕木の先にスリングのようなものが取り付けられ、中間点を支点としてもう一方の腕木の先に縄を何本も付けた、いわゆる人力投石機である。
 諸兄はご存じであろうが、これこそが『三国志』の中でも五指に入る見せ場である「官渡の戦い」において、曹操軍が開発したとされる「発石車」である。

この投石機は、官渡の戦いにおいて、袁紹軍の井欄(弓兵などが乗り、高所から矢を射かける攻城用のやぐら)を打ち壊すために、曹操軍の劉曄が考案したと言われる。この発明は功を奏し、袁紹軍からは「霹靂車」の名をもって恐れられた。今日ではこちらの名の方が有名である。

またこの人力投石機は、「いしはじき」という名称で日本にも伝来している。618年に高句麗の使者が推古天皇にこの兵器を献上したことになっているが、戦場で使われた形跡はなく、また絵画や実物も残っていないことから、この「いしはじき」は幻の兵器とされている。

SiegeTower.png攻城塔(アッシリア) Edit

人類史上初めて攻城兵器を開発したのはアッシリアであるとされている。
といっても発明されたのはアッシュールバニパルがその地位にあった時期ではない。
攻城塔レリーフ
リンク先の画像は、アッシューリバニパルから300年ほど前、アッシュールナツィルパル2世の時代の時代に使われていた攻城塔のレリーフである。
近年、さらに遡って紀元前1800年ごろには攻城兵器が用いられていたという研究結果が出ており、優れた科学技術だけでなく当時の中東の建築技術の高さと都市建設能力が窺い知れる。
まさにアッシリアのUUにふさわしいユニットであるといえよう。

Samurai.png侍(日本) Edit

侍という漢字を訓読みにするとさぶろうと読む。
さぶろうが訛って、さむらいと呼ぶようになった。さぶろうとは貴人にお仕えするという意味である。
そう、元々侍は公家の護衛を担うボディーガードとしての役目を担っていたのだ。
時には御所の警護。時には廟議(朝廷の会議)の警備。またある時には貴族の牛車につき、反乱が起これば鎮圧に行ったりと様々な場所で活動していた。
(古代における蝦夷の鎮定に赴いたのはあくまで兵士と将軍であり、武士というよりも武官の意味合いの方が強い)

侍がそんな役割から立場を上げたのは、10世紀後半の頃からである。
その頃には国司(律令国の長官)として派遣された公家に雇われた武士が小さい領地を治めてたりして、小領主としても存在するようになっていた。
さて、中央では公家の中でも藤原氏が権勢を奮っていた。
貴族は荘園と言う私有の領地を増やすために開墾に勤しんだ。
特に関東は現在とは想像がつかないほどに未開の地であった為に開墾には絶好の場所だった。そこで公家は私財を用いて人を雇い、大規模な開墾をさせた。その長として侍が抜擢されたという訳である。
荘園は「不輸不入権」という国家権力の介在を許さない権利を持っていた。
つまり、何かもめ事が起これば自分たちで処理していく。11世紀後半になると藤原氏の権勢は潜み、引いては所有者の権力が弱まった。
そこで農民たちは開墾した時のリーダーだった侍にその権利を委ねた。
ここに、ボディーガードの律令“内”の侍から律令“外”の侍が登場したのである。

さて、源平などと言われるが、源氏も平氏も元々は貴族であった。
源氏は僅か2歳で即位した清和天皇の流れを汲む清和源氏。
平氏は平安京遷都を果たした桓武天皇の流れをくむ桓武平氏と呼ばれる。
この二家は権勢を奮う藤原氏との抗争に敗れ、関東に逃れた下級貴族である。
関東に逃れた両氏は土着し、やがて力を持ち始める。平将門のように朝廷に刃向う者も出たほどだ。

藤原道長の死後、摂関政治は藤原氏と天皇家の間に子どもが生まれなくなった事から徐々に乱れ始めた。
それに成り代わって天皇を退いた上皇が、天皇よりも強い権限をもって政治を行うようになった。
これがいわゆる『院政』である。院というのは上皇が住んでいる場所を差している。
その一方で、藤原氏の凋落が始まった11世紀前半ごろから、房総半島を中心に起こった平将常の乱
東北地方での前九年、後三年の役。このような戦ごとが次々と起き、その度に侍たちは鎮定の為に赴く。
その際に大きな手柄を立てたので、侍たちは、特に源氏と平氏は名を高めていった。

さて中央ではとうとう「保元の乱」という新たに権勢を奮うようになった後白河天皇とその前の天皇である崇徳上皇が争う乱が起こった。
その戦闘要員として両者は武士を用いて争ったのだ。その時、武士たちは大いに活躍し、その中でも大いに目立ったのが先に出てきた源氏(源義朝。頼朝の父)と平氏(平清盛)という訳である。
その後、力を持った源氏と平氏が争った平治の乱で平氏が権力を得、しかし奢った故に源氏によって平氏は滅亡。
源頼朝によって初の武家政権である「鎌倉幕府」が出来たのは周知の事実である。

よく言われる「武士道」という言葉。現在よく用いられるような絶対的な忠誠というものは当初からあったという訳では無い。
当初の頃は「御恩と奉公」の通り、御恩(領地)の対価として奉公、つまり忠誠があった。つまりは御恩がなければ主家を鞍替えしようが刃向かおうが構わなかったという訳だ。
これは日本だけでなくフランスやイギリス等の封建制。東ローマのプロノイア制(ただしこれは一代限り)やオスマン帝国のティマール制(詳しくはスィパーヒーの項を参照)でも見られるごく普通の事である。主君と家臣というのはあくまで双務的な。互いが互いに恵みを与え合う契約関係を超えるものではないのだ。
鎌倉時代末期に元が襲ってきた後、幕府が処理を誤った故に結果的に滅んでしまったことからもそれは読み取れる。元寇はあくまで防衛戦争だった為、幕府は恩賞を与えられなかった。
そこで幕府は戦費返済に苦労する御家人たちの為に永仁の徳政令という借金免除の法令を出す。
これは幕府が公式に認めた下知状(御下文)を発行したものと売却後二十年以上経過したものを除き、商人に対して御家人から買い上げた土地を無償で返すように求めたものである。
現代でいうなら借金返済が滞った為担保として持っている不動産をもっていかれたのに政府が強引に競売をかけた銀行に対して不動産をタダで返すように命じたようなものである。
それに加えて、領地に対する所有者の変更を認めず、越訴(再審請求)や金銭訴訟をも認めないというあまりにも御家人に偏った命令であった。その為貸し手の商人が猛反発し、貸し渋りを行うようになった。それ故に金銭を得る手段が無くなった御家人たちは更に窮乏するという悪循環を起こしてしまうことになる。
元々これは先にあげた御恩と奉公の関係が崩れ、果ては御家人制度を終わらせかねない状況に歯止めをかけるために行われたものだが、こうなっては本末転倒だ。
結局、翌年には根本となる無償取り戻しを除いてすべての命令が撤回された。
尚、これは日本で初めての徳政令であるが、室町時代以降に入ると民衆たちが土倉(現在で言う質屋)や酒屋(土倉の副業であることが多かった)の高利貸しに抗って一揆を起こした際にも彼らは徳政を求めることとなった。

ところで元寇といったら必ずと言っていいほど出てくるのは、蒙古襲来絵詞である。教科書や資料集などで飽きるほど目にし、記憶に残っている人もいるだろう。
あれは竹崎季長という肥後(熊本県)の御家人が自分の戦いぶりを絵師に描かせたものである。
戦の経緯だけでなく、戦後勲功を認められず恩賞をもらえなかったこと、そのために鎌倉まで上り幕府高官に直談判して恩賞を得たことまでが描かれている。季長のような不満を抱いた武士は他にも多かっただろう。

さて、話を戻そう。今使われるような意味になったのは、平和になった江戸時代に入り山鹿素行という儒学者が儒教の根本となる『忠孝』という概念。
端的に言えば目上の者に逆らうなという思想が持ち込まれてからの話である。
そして支配者の幕府からすればこれ以上都合のいいものは無いため、この概念を用いている儒学(後に朱子学)を官学にし、武士たちにこの思想を叩きこませたのだ。
武士が『武術』から『礼儀』を重んずる転換点となったのは五代将軍綱吉の頃と言える。
まず綱吉は1683年に二代将軍秀忠の定めた武家諸法度の第一条の文言を『文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事』から『文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事』に改めた。
お分かりだろうか。つまり弓馬の道という武道よりも礼儀や忠孝といったものを第一に考えよとしたのである。
綱吉は祖父にして三代将軍である家光より儒学を叩き込まれており、『忠孝』という儒教の教えが入っていることからも影響を大きく受けていることが分かる。そんな儒学フリークだった綱吉は儒学の大家である林信篤を大学頭(大学の学長をイメージしてもらえるとそれが近い)に任命して湯島聖堂を設立。幕府に仕える武士たちに儒学を奨励した。(もっとも三代後の吉宗は反対に実学を重視したため一時的に衰退してしまうが……)
さて、この頃の江戸には初期よりはびこるかぶき者(前田慶次のようないでたちをした荒くれ者)が町を闊歩していた。綱吉はこれらを風紀の乱れとして徹底的に取り締まり、かぶき者が行うような”力”に重きを置く価値観を改める為に『生類憐み令』を制定。
これは再評価の流れが強くなっているが、その要因として上記にあげたものと生類はよく言われる犬などのいわゆる動物のみならず、傷病人や老人などの社会的弱者もこれに含まれていた点がある。とはいえやりすぎであったことは事実の為綱吉が亡くなるとすぐさま廃止された。
このように、17世紀の終盤から18世紀の初頭にかけて武士の在り方は大きく変わり始めたのである。1683年の時点で大坂の陣より70年近く経過しており、いわゆる大名同士が戦う合戦というものを経験した人がほぼ亡くなっている為(15歳で計算しても83歳である。70歳で古希。77歳で喜寿と呼ばれる時代にどれだけの人が生き残っているのかは想像に難くない)時代の必然ともいえる。

一方で民衆たちの意識にまで浸透したのも綱吉の時期だといえる。大坂の陣から百年も経たない1703年に赤穂浪士の討ち入りが起こると翌年にこれを題材にした歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』として世に出されることになる。
結果これは江戸時代の民衆に大きく受け入れられそれと同時に武士のあるべき姿として定着したといえるだろう。(因みに忠臣蔵は同事件をモデルにしたものだが、江戸時代中は幕府を憚って時代や人物を変えたいわばオマージュに近いものとして行われていた。これは『源氏物語』や唐の『長恨歌』にも見られる手法である)
それから十年ほどすると『武士道というは死ぬこととみつけたり』の文言で非常に有名な佐賀鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』が読まれるようになり、これもまた一つの武士の形として定着していた。(但し奇書として見られていたり、藩によっては禁書に指定されていたことも追記しておきたい。後に同郷である大隈重信も江戸期の武士の考え方を反映したものではないと批判している)
明治に入ってからは山中幸盛や楠木正成といった忠臣が大いにリスペクトされ、これもまた武士のイメージを固めていった。明治期の教科書には必ずといっていいほど山中幸盛の七難八苦の話が載っていたとされるほど。
当然のことだがもう戦国期の武士など存在するはずもなく、そのイメージがついたまま『武士道』が形作られ現代まで残っている。しかし、これがあったからこそ忠臣蔵のような作品が世に受け入れられたとも言える為一概に悪いとはいいきれないだろう。

尚、さぶろうという意味の言葉としては侍が役割を終えた明治に入ってからも天皇に従う「侍従」という役職として残されている。
日本の終戦時の首相である鈴木貫太郎は侍従長を務めていた。

Berserker.pngバーサーカー(デンマーク) Edit

『バーサーカー(ベルセルク)』と聞くといわゆる狂戦士がイメージされるが、
これは北欧神話における伝説上の戦士のこと。乱暴をはたらく不逞兵士をこの神話にたとえてベルセルクと読んでいたらしいのだが、
混同され、最終的にデンマークのユニットにされたりしちゃっていると考えられる。
もっともハラール1世の親衛隊の名前に「ベルセルク」の名を冠する事例もあったらしく、
「ヴァイキング精鋭兵士」くらいの意味合いかもしれない。

デンマークのヴァイキングは主にイングランド側からデーン人と呼ばれて区別された。
9世紀初頭、カール大帝率いるフランク王国が外征の末にデンマークと国境を接するようになると、
デンマークは危機感をおぼえたデンマーク王ゴズフレズにより侵攻をはじめた。
このときに使われたのが名高いロングシップである。
機動力や速力にすぐれ、外洋から河口をつたって内陸にまで乗り入れられる取り回しのよさでフランク勢を翻弄した。
移動力プラスや上陸作戦がデフォルト付属しているのはおそらくこのため。

その後、代を重ねつつ、数度の和平をはさみながらも攻撃はとどまらず、フランク王国を海岸沿いに蹂躙。
865年には対岸イングランド東部を占領した。
878年のウェドモーア和議でイングランド北東部はデーン人のものとされ、この地をデーンローと名づけた。
またフランス沿岸部にはこの頃ヴァイキングが定住化、
後世には地上最大の上陸作戦がおこなわれた地として知られるノルマンディー公国が勃興した。

シヴィロペディアの記述とは裏腹に、実際のヴァイキングは交易を軸としつつ半農半漁を営み、
手工業にも長けた人々(ノルマン人)であったとするのが最近の定説。ヴァイキングはノルマン人の船乗り連中といった定義が妥当だろうか。
また「北欧」という言葉からはピンとこないが、北欧神話に象徴されるようにキリスト教社会とは明確に異なる文化圏を持っていた。
そのためキリスト教を明確に掲げるカール大帝のやり方には脅威をおぼえ、
大規模な南下侵攻を起こすことになったのでは…?とされているが、諸説あるらしい。ウィキペディアにそう書いてある。

Landsknecht.pngランツクネヒト Edit

誕生は、ドイツの貴族がスイス傭兵に倣って創設したのがきっかけ。
ランツクネヒトの名称の語源は2つあり、Land(平地)と Knecht(兵士)の説とLand(田舎)と Knecht(雇われ人、使役人)説がある。

中世のはじめ、ヨーロッパには3つの身分があった。すなわち「戦う人」「祈る人」「耕す人」である。「戦う人」はやがて騎士という戦士階級を形成し、「耕す人」を土地ごと支配する構図ができあがった。封建制である。
ところで騎士の維持にはカネがかかる。末端の騎士はろくな土地ももたず万年金欠であったから、主君への奉公のない時期には出稼ぎを行ったーーつまるところ傭兵である。
雇用主はカール大帝やバルバロッサ赤髭王、あるいは十字軍、あるいはイタリア諸都市などなど、西欧じゅうにいくらでもいた。地域や日数に縛りのない傭兵は重宝されたのだ。とくにイタリア半島では都市国家が彼らを長いあいだ受けいれ続け、一部はそのまま土着化して王国を築くほどに伸長した。

そんな時世のなか、スイス原初同盟は1315年に反旗を翻し、為政者ハプスブルク家を完全撃退する。このときハプスブルク家は騎兵を、同盟は長槍歩兵を擁した。歩兵といえば騎兵に蹴散らされるのが当時の常であったから、スイスの起こした快挙、というかパラダイムシフトはまたたくまにヨーロッパじゅうをおどろかせた。
強さの秘訣は密集隊形(方陣)、ハルバードやパイクといった長尺の武装、一糸乱れぬコンビネーション、そして捕虜をとらずに殺してしまうやりかたにあった。自律性にまかせて散発的な攻撃しかできない従来型の騎兵戦術ではこれに対抗できず、諸国は争うように彼らを雇いはじめた。ろくな産業のないスイスは州政府が直接これに応じ、契約をかわして兵を派遣した。スイス傭兵の起こりである。主たる雇用先はヴァロワ朝フランスであった。たとえばブルゴーニュ戦争では古式ゆかしいブルゴーニュ騎兵を完膚無きまでに鏖殺しつくし、内乱の芽を詰むのに一役買った。

ところでこの戦争に負けたシャルル突進公、に仕えたハーゲンバッハ・フォン・ペーターなるドイツ貴族、彼こそがランツクネヒトの生みの親である。彼本人はさしたる功もなく処刑されたが、彼のとった手法ーー周辺の農村から農民を雇い、当時最強のスイスふうの長槍を武装させるーーはまさにランツクネヒトの前身といえた。これをより大規模にしたのが、当時手駒の軍隊を持てなかったドイツ皇帝マクシミリアン1世である。ドイツ南部は小作農が多く、後を継げない次男坊三男坊といったアウトローがたくさんいた。これを雇いあげて槍歩兵に組織したのだ。お手本はほかでもないスイス傭兵。密集隊形に長槍という得物はまさしく完コピといえた。

戦闘スタイルは完コピであったが、組織運営に関しては対照的で、部隊内に大幅な自治をあたえ、兵士集会で長を選出させるなど、たいへん民主的であった。農村よりも自由な気風を良しとし、みな着飾って戦場に臨んだ。マクシミリアン1世もこれを是認したため戦場はいよいよ華やかになり、派手というよりはもはや珍妙といわんばかりの格好となった。ルネッサンスの一翼をなすモードすら生み出したともいわれている。

ランツクネヒトは、マクシミリアン1世の出身であるハプスブルク家の尖兵であることを当初期待された。しかしこれも形骸化し、傭兵の名のとおりにライバルのヴァロア朝フランスにすら雇われ、ローマ略奪に付き従ったり、またスペイン・ハプスブルク家に付随して新大陸に財を求めてたりして、その悪評を重ねた。
そして、自由と民主性をアイデンティティとしたランツクネヒトも、オランダ独立戦争での敗北を期に陰りがみえはじめる。徴兵制の端緒というべきオランダ軍の組織力には膝を折った。つづく三十年戦争では傭兵隊長ヴァレンシュタインの軍制改革のもと、もはや傭兵というよりは常備軍というべき状態であった。以後はもはや傭兵の時代ではなく、ルイ14世の軍制改革にならってヨーロッパは常備軍の時代へと移ってゆく。

Impi.pngインピ(ズールー) Edit

MandekaluCavalry.pngイスラム騎兵隊(ソンガイ) Edit

Naresuan'sElephant.pngナレースワンの象(シャム) Edit

「ナレースワンの象」という象や戦象部隊はおらず、タイの英雄的国王ナレースワンから名付けられたのだと思われる。
戦象については既に他の項の参照をお願いするとして、この項ではナレースワンについて少し解説しよう。

時は16世紀中ごろ、ピッサヌロークがビルマに敗北した際、知事の息子であったナレースワン(当時8歳程度)は人質としてビルマに送られる。
アユタヤ王朝がビルマによって打倒されるとナレースワンの父が傀儡王に任命された。父王はナレースワンを取り返すために娘をビルマ王の妻として差出した。(息子取り戻すために娘差し出すって凄いな)
タイに帰還したナレースワンは人質時代に学んだ軍事や独特な格闘技(ムエタイの原型?)によってタイ軍を鍛えに鍛えまくる。
1574年遂にナレースワンはアユタヤ王朝の独立を宣言、攻め寄るビルマ軍をちぎっては投げちぎっては投げの連戦連勝、失地と栄光を回復することに成功した。(ビルマ王に送られた妹はどうなったんだろうか)
現在ではタイの三大王にも数えられ、紙幣の肖像になるなど大変尊敬されている人物である。

酷い手抜きであるシヴィロペディアによるとナレースワンは象に乗って象に乗った相手と一騎打ちして勝利したとしているが、これはタイにあるナレースワンの戦勝記念像を基にしたと思われ真偽は定かではない。
しかしタイでは20世紀初頭まで象に大砲を乗せて運ばせていたりジャングルのパトロールに象を使ったりしていた。つまり象とは他の国における馬くらいに身近に利用されており、もしかすると象に乗って一騎打ちなんてのも実際に行われていたのかもしれない。

余談ながらアユタヤ王朝がスペインの侵攻を受けた際日本人町に住む人々が日本人義勇軍として参戦し、二度のスペイン艦隊来襲を退けている。
その功績を称えたものかはわからないがタイのワット・ヨム寺院には象に乗り日の丸を掲げて行進する日本人部隊が描かれた絵が存在する。

『日本人義勇軍行進図』ワット・ヨム寺院に描かれたものの模写

(軍用象へ戻る・・・)

Conquistador.pngコンキスタドール(スペイン) Edit

コンキスタドール。
字面だけみれば如何にもかっこよさそうではあるが、スペイン語に直すとConquistador。英語のConquestと大変親しい名前である。
そのため日本語に訳すと「征服者」といった意味合いになる。
ゲーム内では追加視界が与えられ、出航時に防御ボーナスがつくなどの新大陸を探検する際は大変おいしいボーナスがついている。
このボーナスの出所はもちろん、コンキスタドールたちがやってきたことそのものを体現したものだ。

時は大航海時代の真っただ中、時代の嚆矢を放ったのはスペインと、同じイベリア半島の国家、ポルトガルである。
そもそもの大航海時代の原因は十字軍の時代に遡る。この時にアラビア学者の研究資料や砂糖(サトウキビ)、香辛料などを手に入れたためである。
当然これらは中世の貴族を大いに喜ばせたが、それの入手方法が極めて限られていた上、その流通を支配していたヴェニスの商人や中国の商人が極めつけの悪辣振りを示したため、より直接に原料産地、特に「香料諸島」と称されたモルッカ諸島を求めるために始まったのが大航海時代なのである。

しかし当時の人々のヨーロッパ大陸の「外」、特に東南アジアについての情報はヴェネツィア人マルコ・ポーロなどが記した(不確かな)伝記に限られていた。
太平洋に面していたポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマとコロンブスは、それを頼りに香辛料を求めて海上をさまよったのである。
やがてヴァスコ=ダ=ガマによってアフリカ大陸の南を経てインドへ通じる航路を発見すると、ヴェネツィア商人たちの束縛から解放されたポルトガルは香辛料等の貿易で巨額の利益をあげた。

これに焦ったのはスペインである。スペインもこの大航海時代で名を上げようとしていた上、香辛料は出回れば出まわるほど価値が減じるからである。
スペインはポルトガルから放逐されたコロンブスやマゼランを使い、イベリア半島から西回りの航路を取ってインドネシアのモルッカ諸島を目指した。
やがて大きな大陸に突き当たったが、後にアメリゴ・ヴェスプッチの探検よって、この大陸がアジアではない事が判明した。
この大陸はアメリゴの名から『アメリカ大陸』と呼ばれるようになる。

だがこの頃になるとイギリスやオランダなどが宗教改革などのゴタゴタから立ち直り、スペイン・ポルトガルを脅かすようになる。
また新大陸へ入植した人々も焦りを覚え始めた。なにしろ赤道に近い地域である。住んでいた所とは比べ物にならない暑さに加え、探せど探せど出てこない香辛料や黄金の数々……。
現在からみれば全くの無駄骨という訳では無く、黄金を求めていたバルボアは南の海(現在の太平洋)を発見し、パナマ地峡を横断。アルマグロはチリを発見し、ソトはミシシッピ川を発見。
しかし、結局目当てのものは見つからず、その間に特にイギリスがドレーク提督の世界周航の成功や東インド会社の設立などで徐々に追い付いてきた。
入植していた人々はもう平和的に進めるのは無理であると判断し、「暴力」による解決を目指した。収奪によって利益を得んと目論んだ訳だ。
これに上述のように先行者の優位性が崩れかけ焦っていたスペイン王宮との思惑が合致し、「コンキスタドール」が誕生したのだ。

コンキスタドール達は王宮から許可を貰い、武器を持ちながら中南米を駆け回った。
たった600名でモンちゃ……モンテスマ2世(Civ5のモンテスマは1世)のアステカ(アステカが指導者紹介に出てるほどの領土になったのはモンテスマ1世一代といっていいほどの短命帝国である)を征服したコルテス。
ピサロに至っては200人でインカ帝国を滅亡に追い込んでいる。
当時、インカやアステカにはコンキスタドールの数百倍くらいの軍勢を擁していた。
しかしそれでも負けてしまったのは、やはり文明の差である。

まずこの頃には火縄銃はマスケット銃を経てフリントロック式の銃器が出現し、本格的にクロスボウや火縄銃が運用され始めた。
また"ルネサンス期最大の発明"の一つ、羅針盤が出回るようになり、遠洋航海が可能になった。また小型・高速・簡便であるキャラベル船が出現したのも追い風になった。

中南米における文明の特徴として、鉄の文化(青銅器や石器はあった)が無かったこと、そして馬や騎兵がいなかったことが挙げられる。
つまり、アステカやインカの人から見れば、当時の鉄砲を撃ちながら進軍する騎兵は「怪物に乗った怪人が、金属の球を撃ちだしながら、見たことも無い速さで襲い掛かってくる」という光景なのだ。
怪人というのは要するに白人。彼らはモンゴロイド(黄色人種)に属していた。なので白人の透き通るような肌はさぞかし異様に映っただろう。
それ以外にもアステカの場合には「生贄制度に反対して、東方に追いやられた神様がいつの日か戻ってきて、この国に災厄をもたらすだろう」という伝承が信じられていた。
兵士どころか、皇帝のモンテスマ2世までこれを信じていた為、スペイン人をその言い伝えの権化だとして戦意を喪失してしまっていたのだ。
後にモンテスマは廃位もしくは暗殺され、代わりの皇帝を立てて抵抗姿勢を見せたものの、敗勢は覆るべくもなかった。

また旧大陸から天然痘やペストなどの病魔が新大陸に持ち込まれた。
これらは旧大陸では蔓延していたため対処方法やワクチン(種痘)などが成立していたが、そんな知識がなかった新大陸人の間には猛烈に流行した。
この流行が意図したものかそうでないものかはわかっていないが、これら病魔とコンキスタドールの征服行によって両帝国は滅亡に追い込まれる。
尚、新大陸の病魔が旧大陸に蔓延るという逆のパターンもある。代表的なのは長期にわたって臓器を蝕む梅毒という性病で、コロンブス(正確には船員)が現地の女性を手ごめにした後、母国に持ち込まれてスペインを席巻。そしてイタリアやフランス南部にへと広まった。
これはやがてアジアにもインド洋経由で広まり、日本にも到達。常陸の大名の佐竹義宣や家康の次男にあたる結城秀康という武将もこれにかかっている。

さて、中南米を手に入れたコンキスタドールが何をするかといえば、捕えた現地人による作物栽培。要するに奴隷化である。
上述のように(そして現代での砂糖や香辛料の価値からも分かる通り)世界中に出回る前に荒稼ぎする必要があったため、どの国も過酷なまでにこれを推し進めたのである。
スペインではエンコミエンダ制の下、熱帯の気候を利用したサトウキビ畑を作らせ、砂糖栽培に当たらせた。
インカ帝国滅亡から10年ほどたち、1545年にポトシ銀山が発見されるとそこにも大量の奴隷を送り込み銀を採掘した。
奴隷たちは劣悪な労働条件に加えて、疫病にも苛まれた。上述の病魔が大陸中を席巻したのである。免疫も医学の知識も無い彼らにこの病魔が襲い掛かれば待つのは死のみ。
統計情報が錯綜しているため詳細な数字は分かっていないが、ペルーでは40年足らずで800万人近くの人が死亡した。これはインカ帝国時代と比較して8割の人々が死に絶えたという計算になる。凄まじさが想像できよう。
ラス=カサスのようにこれを糾弾する人も居たが、改善に向かったという訳では無かった。
当たり前の事だが、ここまで人口が減ると奴隷の成り手がいなくなる。その為、アフリカなどからも奴隷を連れ込んで、植民地からの資源を維持した。
現在のブラジルに黒人が多く、Civ5のモンテスマなどが黒人ではないのも、原住民が激減し黒人が奴隷として入植したためである。

話を戻そう。当初コンキスタドール達はこれらの富を用いて巨万の富を築き、スペイン王室から半ば独立した存在になっていたのだが、
やがてスペイン王室から分け前(五分の一)をよこすようにと要請が来、さらに本国から官吏を派遣してコンキスタドールの支配権を奪おうとした。
いわばイギリスとアメリカの関係に類似した、先行した現象が起きたのである。
ピサロのように徹底的に抗戦したものも居たが、結局16世紀の後半に入ると副王領等に組み込まれ、同時にコンキスタドール達も消滅していくのだった。

またスペインの海外進出自体も16世紀半ばから弱体化が始まった。まずオスマン帝国の伸長と宗教改革の混乱が伝わってスペイン本国が混乱し始め、
さらにスペインのみならずイタリアやフランスやドイツの一部地域を中途半端に領有していたためその地方の混乱も本国に波及し、
また貿易権益を東インド会社に取って代わられ、さらに海軍力はアルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破られたことで大幅に弱体化したためである。
特にフランス革命後は悲惨なもので、先のアルマダの海戦後に建て直したスペインの艦隊はトラファルガーの海戦で文字通り完膚なきまでに消し飛び、
さらにフランスの傀儡にされかかり、カルリスタ戦争とアメリカ大陸植民地の独立といった混乱から産業革命の波に乗り遅れ、とどんどん沈没してしまう…。

CamelArcher.pngラクダ弓兵(アラビア) Edit

Keshik.pngケシク(モンゴル) Edit

モンゴル帝国の皇帝直属の侍臣団がケシクである。ケシクは職能によって太刀持ちから羊飼いまで多々に別れ、その全てが戦闘員というわけではない。

モンゴル帝国の戦法は上述のフン族の弓騎兵の戦法をさらに洗練させたものである。
まず軽装の弓騎兵が前線に弓矢を射掛けて損耗させ、そこに重装騎兵が突っ込んでズタズタにし、これを繰り返す。
この2部隊は略奪を一切しないため常に攻勢に出られる。略奪は後続の中軍が担い、後々全軍に公平に分配する。
その後方には羊などを放牧する羊飼いなどが同道し、ゆっくりのんびりと前進しつつ前中軍の補給を行う。
また伝令兵は頻繁に発せられ、どんなに高貴な人物であっても伝令にあっては道を開くよう定められていた。
湿地などの騎兵戦術が使えない地域では捕虜や奴隷を歩兵として使役し、攻城戦にあたっては中国人から学んだ投石機や穴攻や火薬などを使用した。
かくしてモンゴル帝国は定住生活を営まない遊牧民のみならずバーミヤーンやキエフなどの都市をも勢力下に置いたのである。

Khan.pngカン(モンゴル) Edit

モンゴルを始めとしたモンゴル高原における遊牧民部族の指導者(王)、それがハンまたはカン(Khaan)である。
キプチャク、チャガタイ、ケレイト、タタールそれぞれの長がハンと呼ばれた。
有名なチンギス・ハーンやフビライ・ハーンの「ハーン」は別名「大ハーン」とも呼ばれ、モンゴルが帝国となったときに古のカガン姓に倣って制定したもので、歴代のモンゴル皇帝専用の名である。

Chu-Ko-Nu.png連弩兵(中国) Edit

連弩とは、連射機構を備えた、もしくは一度に何本もの矢を射出可能な弩のことをいう。個人で扱う携帯式のものと、多人数で扱う据え置き式で『床子弩』と呼ばれるものに分類される。ここでの連弩は携帯式のものであろう。

多くの矢を同時に(または連続で)発射できる連弩の発想は古くから存在したようで、少なくとも戦国時代にはすでに考案されており、前漢時代には使用されていた。『墨子』や『准南子』に据え置き式のものの記述が見られる。小型のカートリッジを備えた連発式のものは、戦国時代の現物が出土している。

連弩が再び歴史に表れたのは三国時代であった。三国のうちの一国である蜀の丞相、知らぬ人はいないと思われる諸葛孔明が、約18cmの矢を10本同時に(または連続して)射撃できる携帯式の連弩である『元戎』を発明した。今日『諸葛弩』と呼ばれている連弩は、明代に考案された約25cmの矢を10本連続して射出するものだ。弓は竹と木の複合弓だが、矢の短さと連射のために省かれた矢羽の影響で、最大射程は35mほど、有効射程はせいぜい10mしかなく、威力がほとんど無いので鏃に毒などを塗ったと言われる。残念ながらこれは『元戎』のコピーではなく、意識して作ったので名前を借りたと予想される。余談であるが、英語版のユニット名であるchu-ko-nuとは、『諸葛弩』の音訳である。

連弩は中国では非常に息の長い兵器であったようで、火器が発達した清代以降も使われ、太平天国の乱や義和団事件ではその取り回しやすさから市街地戦で活躍した。最終的な実戦投入は日清戦争であり、そのような装備の兵士も確認されている。

Longbowman.png長弓兵(イギリス) Edit

長弓……つまりロングボウだ。ロングボウといえばイングランドなのだ。

13-14世紀のイングランドはまだまだ発展途上でお金もなく、
重装化する騎兵どもをブチ抜ける弩(クロスボウ)がマトモに用意できなかった。
どうしましょう、と、考えに考えぬいた当時の英国人は、
ウェールズ侵攻でさんざん苦しめられた大型弓を思い出す。
あれや!あの弓や!あれを集中的に使えばいいんや!ロングボウでレッツビギンや!
とかいう解決法を編み出したのだけれどどうみても英国面ですありがとうございました。後述。

とはいえ性能は実際すごい。クロスボウが1本放つあいだに5-7本発射できる。熟練者は10本射れたとも。
射程も長く、500mは飛んだ。曲射も利くので後列の軽装ターゲットをよく狙うことができた。
クロスボウは矢羽の構造上曲射しづらいので、これも大きな利点といえた。
威力もばかにならない。ミラノ製のちゃんとしたやつで防がないとヤバイ、くらいの高貫通力が期待できた。
乗馬にダメージを与えれば騎兵の無力化も可能である。

クレシーの戦いとポワティエの戦いではこれらを最大限に活かし、完勝した。
地の利をいかしながら騎兵とのコンビネーションで敵をうまくおびきよせ、
連射性と長射程にものをいわせて長時間かけて蜂の巣にしたのだった。

と、聞くだけなら超兵器のロングボウだが、その実態は英国面そのものといえる。
そもそも弓の修練は時間がかかる。しかもロングボウはデカいうえに弓の強さが100ポンドにも達する変態兵器であり、よけいにむずかしかった。
ちなみに現代弓道が15kg(33ポンド)くらい。つまり現代人の約3倍引かないと弓が発射されない。アホである。
もはや弓をひくための身体づくりを日常的に求められるレベルだった。ので、エドワード3世は全イングランド男子に休日のロングボウ練習を義務づけた。
そうやってできた射手の身体はパッと見でわかるほど左腕が長く育ってしまう。骨格から歪む。ここまでくると戦闘民族である。
やじりにも工夫がこらされ、ボドキン矢という高貫通性のものが好まれた。ただし効き目がありすぎて平時に持ち歩くと死刑。

陣形や軍編制にもユニークな工夫がもとめられた。
ロングボウは面で攻撃する戦法。つまり数が多いほど効果的だ。なので軍の過半数がロングボウで編成された極振り軍隊となった。
たとえばクレシーの戦いではイングランド勢12,000名のうち7,000名がロングボウだった。
対するフランス勢80,000名のうち6,000名がクロスボウであることからも異質さがうかがえる。
白兵もできるとはいえ、正面からの突撃には弱いので、堀や馬防柵をあらかじめ敷設する必要があった。
それでも夜襲や奇襲をうけると万事休すだった。

総じてかなり使いどころがむずかしい兵器である。それに小さいころから育て上げねばならない射手は超貴重だった。
戦争が長引いて戦死者が増えるとじょじょに人材が不足していった。捕虜にとられた兵は指を落とされることが常だったという。
さらにイングランドの待ちガイルをいいかげん見破ったフランス側も、ムダな消耗を強いるなどの戦法に出る。
ロングボウよりも長射程の大砲や銃などが出現すると、徐々に衰退。
それでもマスケットの初期バージョンよりは高威力だったので17世紀まで使われた。

Hwach'aArtillery.png火車(朝鮮) Edit

ゲーム内では世宗が製作したとされるが、正確には世宗死後に即位した息子がコンセプトを受け継ぎ、設計したもの。
手押し車に発射装置を置いた構造で、発射装置は取り外し可能のマガジン式になっており、装填が容易であった。
発射装置は火箭タイプと銃筒(旧式の銃。映画「もののけ姫」で使用されたようなタイプの銃)タイプが存在し、付け替え可能で、
角度によって直射と曲射を切り替えることができた。

発射される火箭は火薬の配合により発射後に爆発する作りであり、命中率の低い火箭を集中運用する面兵器として運用される。

ゲーム内性能のようにオーバーテクノロジーなものではなく、面制圧能力こそすごいが、燃費もすさまじく悪く、火薬の消費が激かった。
さらに朝鮮は火薬の原料である硫黄の大部分を輸入に頼っており、その輸入先は他ならぬ日本で、日本も琉球から輸入するという貿易構造ができていた。

そのため、戦場では同量の火薬でさらに多くの弾を撃てる銃筒式が徐々に一般的になり、鉄砲が導入されると鉄砲の火車が作られた。
火箭を使わなくなった事で、曲射がいらなくなり、前面に木と鉄でできた盾を装備できるようになる。

火車には様々なバージョンが存在し、
前面と左右に発射口を付けた3面攻撃の火車は、後方を牛に繋げて、導火線に火を付け、敵陣に突っ込ませて発射させる特攻自爆として使用された。
鉄砲と大砲で武装した70人で動かす巨大火車もあった。
この巨大火車は重すぎるという事で試作品を1個作ってただけで、ボツになっている。

この兵器が中国の兵器ではなく、朝鮮の兵器として知られている理由は、
朝鮮で作られた設計図が、唯一、部品規格や分解図面を記述しているため、再現可能な最古のロケット兵器であるためだ。

GreatGalleass.png大ガレアス船(ヴェネツィア) Edit

MerchantOfVenice.pngヴェニスの商人(ヴェネツィア) Edit

「ヴェニスの商人」と言えば、シェイクスピアの喜劇として大変有名でな作品である。
ロマンチックなストーリーの作品だが、当時金貸し業などで悪名を馳せていた被差別民であるユダヤ人に対する憎悪や反ユダヤ感情を背景としている。悪役の「シャイロック」の扱いもあり、悲劇とも言われている。

シャイロックの立場で書くと
「普段からツバをかけて侮辱してきた奴がお金を貸してと願ってきたので、返せなかったら担保として自身の肉1ポンドを要求した。※1 
契約書にサインを受けて待っていたら、金が返せなくなったと知らせが来たので裁判に掛けてやることにした。ところが奴の恋人が肉は切り取っていいが血は流してはダメだと弁護し、逆に自分が殺人未遂で起訴されてしまった。
死刑の免除の代わりに財産は半分没収され、キリスト教に改宗させられてしまった。」
と言った理不尽極まりない話である。

ユダヤ人をこらしめるといった内容なので、ユダヤ人を憎む国によって何度も講演され、そのたびにユダヤ人の金貸し「シャイロック」は邪悪になっていった。
ちなみに、本場のユダヤ人は「こんな話デタラメだ!ユダヤ人なら骨の髄まで搾り取るから殺しはしない!」と違う方向で不満なようだ。

※1
実際のセリフを現代風にすると

シャイロック
「玄関で野良犬みたいに暴れてたあんたが<金を貸せ>って、なんて言えばいいの?
<この間の水曜には私にツバを吐きかけ、ある時は私をこの野良犬めとお呼び下さったお礼にお金を貸しましょう>
とでも言って欲しいの?」

アントニオ
「俺はこれからもそうするよ。貸す気があるなら敵に貸すって思えよ。仕返しが出来るぜ?」

シャイロック
「そこまで言うなら、お金を貸すけど、お前が決めた期日に返せなかったら覚悟しろよ?」

アントニオ
「おうよ!」

Janissary.pngイェニチェリ(オスマントルコ) Edit

14世紀に作られたオスマントルコの精鋭歩兵であり、イスラム教の指導者的役職の「スルタン」の近衛兵でもある。
当時のオスマントルコ軍はトルコ族の騎兵が主軸であり、トルコ族の影響を受けない、スルタン直属の軍事力の確保のために創設される。

戦争捕虜や奴隷で構成されてると知られているため、ジャガー戦士と同じくそれを考慮してのゲーム内能力だ。
しかし、戦争捕虜や奴隷を使用したのは創設当初のみで、創設して間もなくして「デヴシルメ」という徴兵制度が制定される。

デヴシルメ制度は選抜の担当が占領地のキリスト教の村々を回りながら、10~20歳の少年たちを集め、最も優秀な子供を選別した。
多くのキリスト教徒は、自分の子を連れてかれるのを恐れ、子供を隠したと言われる。
その一方でキリスト教徒が出世できる数少ない手段である事から、自ら志願したり、賄賂を渡して合格したケースも存在する。

選抜された少年たちはイスラム教に改宗させ、同じ部隊の仲間を家族とし、スルタンを父のように敬い、自分たちはスルタンの奴隷であると教育を受ける。
様々な訓練や教育を受ける中で、それぞれの適性に合わせて進路が分かれる。最も優秀な者は皇室直属の近衛兵や、高位官僚になり、
軍事部分で特に優秀な者はスィパーヒーという特殊部隊に編入され、他の分野で優秀な者は聖職者や一般官僚として出世した。
デヴシルメ制度はオスマン帝国内の既存の族長や貴族に代わる、新しい支配階級の育成という役割もあったのだ

(ちなみに、イェニチェリとして同じ訓練を受けたのに、優秀だと評価されたスィパーヒーを嫉妬してたそうだ。)

イェニチェリは口髭以外の髭を剃るのを禁止されており、結婚も高位官僚になって退職しないと許されなかったが、のちに許可された。
生涯を職業軍人と過ごすため、給料や社会的地位、退職金等の多くの面で優遇されていた。

戦場では主に弓とハルバードで戦い、マスケットや大砲などの火器の導入されると、弓の代わりにマスケットを標準装備とした。
爆破や穴掘りなどの工兵や狙撃専門部隊、町の治安を守る憲兵、世界初の軍楽隊などの専門部隊がおり、
長期間の訓練により熟練した兵士で、士気が高く勇敢であった事から欧州では悪魔の軍団として恐れられた。

結婚が許可され、イスラム教徒も志願できるようになると、世襲が起こり、イェニチェリは堕落する。
既得権益を守る私利私欲の集団となり、帝国内の経済界で影響力を広げ、ヤクザみたいな存在になり、戦闘力も以前の面影を見なくなった。
イェニチェリ制度改革を試みたスルタン達が、イェニチェリによって殺害されていき、イェニチェリの暴走は止まらなかった。

(この時に、ちゃっかりスィパーヒーが管理してる土地まで手を広げ、さらに犬猿の仲になる)

マフムト2世とイェニチェリと敵対していたスィパーヒーが手を組み、軍制改革に反対したイェニチェリの反乱は新式の軍を前に大敗し、
スィパーヒーの執拗な追撃と掃討で、最後の1人まで粛清され消滅した。

Minuteman.pngミニットマン(アメリカ) Edit

速度計や天気予報でkm/hやm/sという表記を見たことがある人は多いだろう。
この分母となるhやsはhour(時間)やsecond(秒)の略であるが、その中間の存在としてminute(分)がある。
そう、アメリカのミニットマンとはここから「召集をかければ一分ほどで素早くかけつけてくる兵士」という意味合いで名づけられたものなのだ。

時は18世紀の後半。イギリスは七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)で窮乏状態に陥っていた財政を賄う為に財務大臣タウンゼントは北米植民地(後に建国十三州となる)に税をかけた。対象は砂糖や紙、鉛、ペンキ(塗料)、茶など多岐に渡った。すぐに廃止こそされたが印紙税に至ってはトランプにまで課税が及んだ。
このタウンゼント諸法自体は植民地側の反対によって施行後数年で茶を除き廃止された。
しかし植民地と本国のわだかまりは解消されなかった。これらの法律は植民地側の同意なしにイギリス本国が勝手に決めていたもので、「代表なくして課税なし」の標語として独立戦争でも用いられた。
そして、そのわだかまりのまま1773年に東インド会社(1600年に設立されたアジアにおける貿易や植民地経営を任された勅許会社)の茶を無関税で北米植民地にて販売することを認める茶法が成立した。
だが当時は茶などの密貿易によって生計を立てていた人が多かったため、このような政府主導で特定の会社に特権を与えることが許せず遂に同年の12月にボストン茶会事件が発生した。
この事件でイギリスと植民地側との対立が決定的になり、翌年の4月レキシントン=コンコードにて両軍が衝突。独立戦争がはじまったのだ。

この独立戦争で初期の戦線を担ったのがこのミニットマンである。ミニットマンは元をただせば正式な訓練をうけていない民衆たちだが、自由を勝ち取る為に英軍と戦ったのだ。
……とはいうが実のところ日本における足軽と似たところがあり不利になると一目散にバラバラに帰ってしまう為集まるのも散るのも一分というのがミニットマンの実のところであったそうな。
武器は銃から鍬や鋤などとにかく殺傷能力があるものが寄せ集まっただけの有様である。しかし、猟師を生業としていればスナイパーとして役立つことがあったり地形を知り尽くしていると奇襲をかける事も出来たためバカにはできない。
離合集散を繰り返す戦闘集団であったが英軍からすればすぐに逃げてしまう故に殲滅させることは出来ずいわば夏に部屋でつきまとう蚊やハエのように鬱陶しかったことは否定できない。上述したレキシントン=コンコードや独立軍優勢への転機となったサラトガの戦いなどでは英正規軍を打ち破っている。
フランスの支援(後にフランス革命で活躍するラ=ファイエットも従軍)やロシア主導の武装中立同盟(独立戦争への不介入。因みにこの時の皇帝は本作での指導者にしてあのビッチで啓蒙専制君主で有名なエカテリーナ女帝である)など独立軍側に追い風が吹いて有利になりはじめると独立軍側にも正規軍が増え始め、ミニットマンは共に動くことになった。尚、独立戦争は革命軍vs英国軍の構造でとらえられがちであるが、革命軍内は一枚岩ではなく、王党派(英国派)中立派(本国との和解)などの派閥があり民兵同士で争うことがあったことを追記しておきたい。

アメリカ独立戦争は人権思想が結実した初めての戦いといえ、王や強権からの市民によって離脱したという事実はフランス革命をはじめとする市民革命に大きな影響を与えた。そしてその陰にはミニットマンという名もなき市民たちの活躍があったことを忘れてはならないだろう。

余談であるが、アメリカのニューヨークにそびえたつ自由の女神。
アメリカの建造物と聞いたら大抵の人は真っ先にそれを思い浮かべるといって過言ではないほど著名な銅像であるが、あの塔はフランスの提唱で作られたものである。
しかし、設立に至るまでには様々な紆余曲折があった。
まず、この像は独立百周年(1776+100=1876年)の完成を目指し、フランスが像を造った後にアメリカに寄贈する計画で建てられたものなのだ。しかし、莫大な建設費用を賄うことが出来ず実際に像が出来上がったのは100周年から8年後の1884年であった。(当時の欧米諸国は1873年より不況の最中にあり資金集めに困苦していたのだ)
しかも、像が完成してもアメリカ側が用意するはずだった土台が用意できておらず設置までに更に2年の歳月を要した。(フランスからは214個のパーツに分解されてニューヨークに送られた後、組み直した)
それでも、1886年10月に除幕式が行われた。高さは台座あわせて93mと現在のイメージからはかけ離れているかもしれないが、当時のニューヨークでは最も高い建物であった。しかし、10年も経たないうちにヨーロッパ系移民の増加でニューヨークに人が溢れるようになりあっという間にニューヨークは摩天楼の立ち並ぶ大都市になった。
独立戦争でアメリカを助け、自由の女神像を贈り、フランスはアメリカの歴史に多少なりとも関わっている。(ナポレオン統領時代にはルイジアナを割譲している)もちろん決して仲のいい時代ばかりではないが、現在に至るまで米仏関係は概ね良好の状態が続いている。

Musketeer.png銃士隊(フランス) Edit

『三銃士』でよく知られる銃士隊(mousquetaires、マスケット銃兵隊)は、1622年にブルボン朝アンリ4世によって創設された国王直属の近衛兵である。1646年にいちど解散したが、太陽王ルイ14世によって57年に再興・改革がなされ、その役割を大きくした。定員はおおむね250名-350名で推移した。
ふだんは首都パリに詰め、戦ともなれば騎兵にも歩兵にもなる精鋭である。要人護衛や政治犯の逮捕などシビアな任務にも駆りだされたり、パレードの主役となったりもして、知名度が高かった。隊には常に最新鋭装備が支給され、名こそマスケット銃兵隊だが、カービン、小銃、ピストルとさまざまに変遷した。
書類上は護衛歩兵連隊隷下であるが、国王みずから(名目上ではあるが)隊長をつとめる習慣のために、独立性がきわめて高く、格上エリート部隊とみなされた。実質的な隊長となる隊長代理は、非公式ながらも伯爵なみの栄誉を受けた。またふつうの部隊長が銃士隊の隊長代理補(実質の副隊長)に命ぜられることは、2階級下であるにもかかわらず栄転とみなされた。
構成メンバーはフランス貴族である。貴族というとハイソなイメージだが、もともとかれらは王に保護してもらうかわりに忠誠をささげる人々であったわけで、忠誠とは要するに兵役である。つまり家人を引きつれ軍役につくことが仕事のひとつだった。しかし15世紀にはそんなスタイルも廃れ、傭兵隊や常備軍を用意するやりかたへと変化していく。それでも戦いは貴族の仕事という意識はかわらず、貴族の次男坊三男坊が(ことによると長男さえも)食い扶持をかせぐために傭兵隊長となったり、常備軍に入隊するのはふつうのことであった。おりしも戦場は騎兵から歩兵へと移りかわり、装備が簡素になって貧乏貴族の就職先としてはうってつけであった。なかでも銃士隊は栄達がいっとう期待できる花道、垂涎の的であった。フランス全土から未来を切り拓かんとする若者は、こぞってパリに上京したという。齢16歳くらいで銃士になったらまず隊内で数年間技術をみがき、じゅうぶんに成長したらほかの部署に移り、さらなる出世をめざすのが一般的。これがはからずも士官学校のシステムとなってフランス軍全体の質の向上におおきく貢献したという。そのまま居残って古参化するケースも多かった。上述のとおり、多岐におよぶ運用のために実力がもとめられる苛烈な部署である。
1776年にフランス革命を待つことなく財政上の理由から解隊。

Tercio.pngテルシオ(スペイン) Edit

スペインのゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバという将軍によって考案された陣形。

スペインはイスラム教徒との戦い「レコンキスタ」を続けていた影響で軽装の歩兵が主軸であった。
レコンキスタは大軍による会戦は少なく、互いに村々をヒャッハーと、略奪と破壊をしては逃げるを繰り返すゲリラ戦がほとんどだったため自然と軽装になっていた。
また、山がちな地形で牧草地が少なく、騎兵の割合が少なく、歩兵が中心であった。それゆえに騎士階級の育成も遅れたため、歩兵中心の構成であり、貴族も歩兵として戦う事を恥と考えなかった。
イタリア戦争に参戦した際、スイス傭兵とフランス重騎兵に敗北したがきっかけで考案される。

最前列にコルセレットというベテランの銃装備の長槍兵
その次にパイクマンという一部のみ防具を付けた準ベテランの長槍兵
その後ろに新兵は隠れてアルケブス(一般的な火縄銃)と、より口径の大きい銃のマスケットで射撃した。
射程は長いが装填に時間のかかるマスケットはパイクマンの近くに置かれ、装填の早いアルケブスはその後ろに置かれた。

射撃は敵が来るまでは方陣の前で射撃し、敵が接近してきたら、方陣の中に隠れるか、パイクマンの周りを動きながら射撃した。
射撃は自由射撃で撃ったら各自下がってを繰り返した。

元々は3000人規模の陣形であるが、この陣形がドイツに伝わると、前方火力と機動力を重視した2000人規模の、銃兵を前方に集中配備するカトリックリーグテルシオや、
機動力を得るために人数を減らした1000人規模のインペリアルテルシオができた。

ただ、テルシオ陣形は規模が大きければ大きいほど動きは鈍いが、防御力と火力が得られ、士気の維持もできるため、大きい単位の方が有利である。

しかし、オランダ独立戦争時にオラニエ公マウリッツが考案した、火器の火力を生かした一斉射撃の線形陣の登場により時代はラインバトルの時代に変わる。

(考案したマウリッツは一度も野戦でテルシオに勝利していない。 勝ったと思って略奪しようと陣が乱れたテルシオに騎兵突撃して勝利したのを、新しい陣形のおかげだと宣伝した)

火器の発達と共に線形陣も威力を増しながらもテルシオはそれらに勝利し続けるが、ロクロワの戦いで敗北し、
大砲の火力の向上とともに密集する事が的にしかならなくなると、自然と線形陣へと移行し欧州はラインバトルの時代へと移行した。

ちなみに負けたロクロワの戦いでもテルシオは健在だった。
ぼろ負けして他の部隊が皆撤退した後も戦場のど真ん中に居続け、精鋭歩兵の攻撃を2度返り討ちにし、フランスがスペインから鹵獲した大砲を撃ちながらの騎兵突撃を4度も撃退し、
歩兵指揮官が砲兵の流れ弾で死亡し休戦を結んで撤退する時も、武器を持ち旗を掲げて撤退した。

(ロクロワの戦いを再現した映画 http://youtu.be/dMEnBHef96c )

Sipahi.pngスィパーヒー(オスマントルコ) Edit

オスマントルコの非正規軍の騎兵以外の騎兵隊全般を指す言葉。
英語スペルが「Sipahi」で、「Spahi」というスィパーヒーから由来したフランス・イタリアの軽騎兵とよく混同される。
CIV5の和訳の「スィパーヒー」は「Spahi」の方で、「Sipahi」をちゃんと発音すると「シパーヒー」である。(スペル見たら分かるだろ)

スィパーヒーは、主に「ティマリ スィパーヒー」と「カプクル スィパーヒー」の2種類に分けられる。
ティマリ スィパーヒーは、ティマール制により土地を与えられ、有事の際に召集される。

ティマールは与えられる土地の最小単位を指し、だいたい81 km2。
将校クラスになるともっと大きな土地を与えられ、ジアメットと呼ぶ。面積は最大404 km2。
このような土地は税金が免除されていた。

ティマールを与えられた者は召集の際に自身の他に5人を軍に動員させる義務があり、
さらに大きい土地を与えられたジアメットは、20人を軍に動員させなければならなかった。
このように動員された人はジェベル(jebelu)と呼ばれており、主に召集される人の兄弟や息子で構成されており、
装備も召集される本人と変わらなかった。

ティマール スィパーヒーにも2種類があり、与えられた土地がイスタンブールから東か西かによって違った。
西の土地を与えられた「ルメリア スィパーヒー」は欧州の騎士のような装備をした槍騎兵で、
東の土地を与えられた「アナトリア スィパーヒー」は中東の弓騎兵の装備をしていた。

オスマン帝国の初期の時代に大いに貢献し最大14万人いたが、火薬兵器の発展とともに活躍の場を失い、
イエニチェリによって与えられた土地も減少しすると勢力も弱体化し、数千人規模にまで減少した。

軍制改革後、召集義務がなくなり、与えられた土地が私有財産として認められ、静かに姿を消した。

カプクル スィパーヒーはイエニチェリから選抜された騎兵である。
イエニチェリ以外からも武功を立てた兵士や、貴族からも募集していた。

貴族から募集した部隊が一番規模が大きく、スルタンの警護や各種イベントでの儀仗隊を担当した。
それ以外のカプクル スィパーヒはすべて実戦部隊で、出身や社会的地位によって部隊分けされ、下に行くほど軽装であった。
武装は主にプレートアーマーとチェーンメイルを纏い、弓とメイス、斧で攻撃した。

自らを精鋭部隊として誇っていたイエニチェリは、その中からさらに厳選されたカプクル スィパーヒーに嫉妬しており、両者よく対立していた。
さらに、イエニチェリの勢力拡大とともに、ティマリ スィパーヒーの領域にまで手を出した事で、ティマリ スィパーヒーとも対立するようになる。
イエニチェリの勢力拡大に危機感を抱いた土着貴族の支持を受け、スィパーヒーはイエニチェリの対抗勢力となる。

イエニチェリがスルタンを殺害するなど、暴走していく最中、スィパーヒーはスルタン側につき積極的に助けた事から、「騎兵は裏切らない」というトルコの諺ができた。
軍制改革に反対したイエニチェリの反乱との戦いにスィパーヒーは積極的に参加し、生き残ったイエニチェリの追跡と殲滅で活躍する。

イエニチェリを殲滅した2年後、
ティマール制の廃止でティマール スィパーヒーは消滅し、
カプクル スィパーヒーは解散後、新しく再編された西洋式の軍の騎兵隊へ合流する形で消滅した。

最後に、インドにもスィパーヒーと呼ばれるイギリス東インド会社の現地民傭兵部隊がいた。
日本では一般的にセポイと呼ばれている。
名前は同じだが、オスマン帝国のスィパーヒーとはあまり関係なく、トルコ・ヒンドゥー語に大きな影響を与えたペルシア語から派生したものである。
オスマン帝国のスィパーヒーが西洋の封建制における騎士であったのに対し、インドのスィパーヒーはカースト制のある一定の階級の人々を指し、この階級の人々から編成されたので呼ばれるようになった。
またオスマン帝国のスィパーヒーが終生騎馬で戦ったのに対して、インドのスィパーヒーの多くが、火縄銃などを装備した歩兵として戦っている。

インドのスィパーヒーは、新しく配備される銃(ヒンドゥー教徒が神聖化する牛・イスラム教徒が不浄とする豚の油が使われていた)などを理由に、当時インドを実質的に支配していたイギリス東インド会社に反旗を翻したが、反乱は鎮圧され、インドはイギリスの直轄領となってしまう。
その後彼らは、イギリス領インド軍の兵士としてWW1でオスマン帝国軍と戦うが、すでにオスマン帝国のスィパーヒーが消滅してから一世紀近く経っていた。

Hakkapeliitta.pngハッカペル(スウェーデン) Edit

単純にハッカペルだけを語るなら
ウィキペディアが良い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%9A%E3%83%AB

ここではハッカペルが生まれた背景を記す。

多くの人が16世紀頃に銃器の普及により甲冑の有効性が廃れ、長槍と銃兵が戦場の主役になった歩兵の時代と思っている。
しかし、中部ヨーロッパでは17世紀はじめには軍の中での騎兵の比率が約30%だったのが、17世紀中期には50%を超えている。
おなじくフランスも17世紀初めの当初は歩兵と騎兵の比率は11:1だったのが、世界初の国際戦争であり、プロテスタントとカトリックとの戦争である30年戦争を経る中で
軍の中での騎兵の比率が40%を超えるほど膨れ上がった。
パイクの密集陣形と銃器の普及により没落したと思われていた騎兵がむしろ普及によって巨大化しているのである。
当時は騎兵衰退期でもあり、黄金時代でもあったのだ。

かつて騎士によるランスチャージは極めて強力であったが、中世末期にはその対抗策として考案されたパイク密集陣形が登場した。
騎兵槍は片手で使用するため、重さ的な意味で3mが限界であったのに比べ、パイクは両手で持つための長さ5m以上伸ばすことが出来た。
これによりパイク密集陣形が騎士の突撃を迎撃し勝利するようになった。
(ポーランド:だったら槍を5m以上伸ばせばいいだろ! →フサリア参照)

これによって騎兵はパイク密集陣形の5mの外から攻撃できる手段が必要があり、それが銃器であった。
特によく使われたのが拳銃と、テルシオの項目にも登場したアルケブスである。

アルケブス銃の有効射程は50mであり、ある意味50mの槍が出来たようなものであるため、
戦場で有効的だと証明されるようになると、ランツクネヒトを生み出したドイツ傭兵隊はこの銃騎兵を大量に育成し始め、
黒い甲冑をつけたことから「シュヴァルツ ライター」(黒騎兵)と呼ばれるようになる。分類とはライター騎兵である。
このライター騎兵こそ騎士の時代を終わらせた真犯人であり、騎士の突撃をカラコールで勝利したのである。

このライター騎兵を、より軽装化し、胸甲と兜のみ防御を施したものはアルケブシアと呼んだ。

キュレースと言われる中世の騎士の様な重装甲の甲冑を付けた「キュレイシオ」という騎兵も登場する。分類としては重騎兵である。
この騎兵の特徴は「スリークォーターアーマー」と超装甲で、当時のヘビーマスケット(当時の大口径銃の名称)の弾丸を有効射程内で撃たれても弾く代物。
この鎧が頭から膝までをがっしり守っており、ホイールロック式拳銃(フリントロック式の前身)と剣で武装していた。
発砲する時は、火花や音で馬が驚かないように、進行方向に向けて撃つのではなく、
腕を横に伸ばして進行方向と直角になるようにして撃った。

パイク密集陣形は進軍速度が著しく遅く、24時間密集したたままでもないことから、
敵の補給や補給路を略奪及び前哨戦や偵察などを受け持つ軽騎兵が東欧を中心に使われるようになった。
これらは装甲を捨てて機動力を最大化した。
サーベルを装備したハサーや、槍を装備したコサックなどがある、

正確には歩兵である竜騎兵も同時期に芽吹き始める。
敵陣の近くまで馬で移動し、下馬してから射撃する部隊である。
名称の由来は装備している銃であるアルケブスが、下馬して撃つため、他の騎兵のより長く強力であったことから通称「ドラゴン」と呼ばれていたことから由来する。

意味不明な強さを見せたフサリアを含め
斧、短剣、弓騎兵が登場するなど多種多様な騎兵が入り乱れる時代であった。

当時考案されたカラコール戦法も騎兵を有効的にさせた一員でもある。
一般的に、カラコールは騎兵隊が歩兵隊を前に並んで一斉射撃をして戻っていく戦法と誤解するが、
実際は歩兵隊の射程外で騎兵隊を集め、部隊のグループごとに射程ギリギリに近づいて撃って戻り、次のグループが続けざまに撃つというルーチンワーク戦法である。
持続的な射撃で敵の被害を蓄積させ、士気を挫き、崩壊した時に突撃した。
(車懸りの陣か?!)

カラコールも回る方向や進め方によって

シンプル カラコール
トゥルー カラコール
プロテスタント カラコール
スネイル

などがあった。

当時の銃器は圧倒的に強いものでもなく、甲冑で防げるものでもあり、パイク密集陣形、テルシオの移動速度は30m/分と遅いので、
小規模だが絶え間なく攻撃されるので徐々に戦力が削られていくというものである。

また、ギリシャ重装歩兵でも記述したが、このような長槍密集陣形同士の戦いでは
兵士の数=戦力の違いとなりにくく、被害も出にくく、正面以外では弱い上に、
一度崩れた場合、騎兵は機動力を活かして後方に下がれば再度持ち直せるが、歩兵は難しい問題があった。

それに比べで騎兵はパイク密集陣形との正面衝突以外では、
偵察可能、敵の補給への打撃可能、敵歩兵への持続的な攻撃が可能であり、騎兵同士の戦いは機動戦になるので、
兵士の数=戦力の違いが顕著になるため、各国で競うように騎兵を養成したのである。

騎兵戦で勝利したところが最終的に勝てる。
騎兵戦で勝つということは現代で言う制空権を取ったと同義であった。
歩兵は耐えてくれればいいというのが当時の状況であった。

パイク/長槍密集陣形の特徴として
パイク/長槍での死者は少なく、弓やボウガンや銃など遠距離武器での死者数が圧倒的に多い。これは日本の戦国時代とも共通する部分である。

その理由としてはパイク/長槍は確かに強力だが、敵を「退ける」武器であって「殺す」武器ではない事である。
これは騎兵でも同様であった。

騎士の突撃は敵を恐怖に陥れて崩壊させる効果に優れていたのだが、「殺す」能力はそれほど高くはなかった。
それゆえに騎士と騎兵の対決では、遠距離から先制して攻撃でき、「殺傷」する事ができる騎兵が勝利した。

しかし、そんな常識をぶち壊す騎兵がポーランドに存在していた。

当時、軍事大国であるスウェーデンも西欧の戦い方を踏襲した軍隊を構成していた。

「Battle of Kircholm」にて、たった1回の突撃により、スウェーデン軍は瓦解。戦力の60~80%である5000~9000人の死者を出し、国王も戦死した。

スウェーデン軍がここまでボロカスに敗北したのは、軍制改革に来た将校が、途中で帰ってしまったため軍制改革が中途半端な状態で止まってしまったからである。
当時の将校がスウェーデン軍のパイク陣形を見て、「ガバガバじゃねーか!!」と驚愕した記録がある。

いくらフサリアでも、パイク陣形に突っ込むと大被害を出すため、必ず大砲や歩兵の火力支援が無いと突撃しないのが定石であり、
グスタフ・アドルフ以上の軍事的天才であるポーランド軍の指揮官スタニスワフ・コニェツポルスキもそれを承知していた。
この戦いでのフサリア単体での突撃は極めて異例であり、いかにスウェーデン軍のパイクがガバガバだったかが伺える。

ポーランドの内部事情により追撃が止まったことで何とか生き残れた将軍達は新戦法や軍制改革を試みる動機となった。
新しく即位したグスタフ・アドルフは、ポーランド フサリアの衝撃力と西欧のライター騎兵を合わせた新戦法を考案した。

馬の量と質共に劣っていたスウェーデンの事情を考慮し、ライター騎兵やハサーなどの全ての騎兵をキュレイシオに統合した。
銃との競争で重装甲になり過ぎていた甲冑を胸甲だけにし、軽量化した。
カラコール戦法を捨てて、突撃しながらに二丁拳銃を撃ち、そのまま相手に衝突した。
足りなくなった火力をマスケット隊や竜騎兵(下馬射撃時代)に支援射撃させることで補った。

これをスウェーデン軍で担ったのがハッカペルであった。

この戦法は
30年戦争で大いに活躍し、
当時銃の性能向上と保有数の増加による歩兵火力向上に対応できず、騎兵不要論が出ていた欧州にて、新しい騎兵のあり方として定着した。

(グスタフ以前のフランスのアンリ4世がカラコールを禁止して、突撃戦法を重視したので、騎兵の突撃戦法そのものを復活させたのはグスタフでは無い。
新しい時代に合わせた騎兵の基準を作ったが正確である。)

また、戦法の定着により、正式に胸甲騎兵と竜騎兵という兵種が誕生したが、
騎兵を統合する編成により、それからの戦争で偵察が疎かになるようになり、
胸甲騎兵は役割としてはハサーと重なる上に、費用対効果が低いと評価された。

ナポレオン戦争では背甲と兜を取り入れ装甲をました胸甲騎兵と、フサリアの後輩であるウーランが
ナポレオンの指揮のもと活躍したが、ナポレオン以上に騎兵をうまく運用できる人材が現れなかったことや、
ハサーなどの軽騎兵に比べて遅い・高いというところが指摘されて縮小されていった。

竜騎兵も30年戦争後、欧州で広がるが、戦列歩兵の登場により火力で負けるようになったため、
ハサーと似た軽騎兵へ変わっていった。

帝国主義時代を経て植民地などのゲリラ戦に対応するために重宝され、第1次世界大戦まで、騎兵の基本形になるに至った。

WingedHussar.pngフサリア(ポーランド) Edit

ポーランド・リトアニア共和国で活躍した、「神兵」と呼ばれた騎兵史最強の騎兵である。
正式な名称は「Winged Hussar/Polish hussars」とちょっとかっこいい。
「Hussar」はフサリア、ユサール、ハサー、フザールと和訳が統一していないため好きに呼ぶといい。

元々は軽騎兵を伝統的に運用していたハンガリーが、セルビアがオスマン帝国に征服され多くの傭兵として流れてきたセルビア軍をの吸収し、「黒の騎士団」という国王親衛騎兵隊として組織編成したのがフサリアの始まりである。
このフサリアはスィパーヒーと同等の戦闘力を持ち、ハンガー王国滅亡後も、オーストリアの重要な軽騎兵として存在し、東欧へと広がった。

元々騎兵が主体のポーランドでも「黒の騎士団」に強烈な印象を受けた貴族達によってセルビア傭兵を雇用しフサリアを編成した。
創設した初めは傭兵のみで構成されていたが、創設以後は貴族と平民分け隔てなく受け入れ体系化し急成長する。

創設当初は他のフサリアと同じく軽装騎兵だったが、西ヨーロッパの影響を受け徐々に重装化し、重装騎兵に近い兵科になる。
背中の羽はポーランド王家の象徴「羽を広げた鷹」と、リトアニア王家の象徴「馬を走らせる騎士」が合わせた「戦闘に何の役にも立たない」装飾であり、肩にはヒョウの毛皮をマントのように纏っている。

(無駄にかっこいい)

当時は長槍兵の時代だが、ポーランドフサリアはそれを軽く超える5m以上のの長槍を使った。
長さを確保するために槍の木の部分の中を掘って空洞にしているため、重さは3kg前後と軽いが、一般的な騎兵用の突撃槍より壊れやすかった。 
(※ 一般的な突撃槍も突撃したら壊れます。壊れやすくすることで、騎手に衝突の衝撃が伝わらないようにしています。)
そのため重武装した兵士には苦戦するが軽装備の兵士にはめっぽう強かった。

戦い方は一度突撃した後、白兵戦に移行するのではなく、敵の隊列が健在な場合、中世の騎士のごとく一度自陣に帰り新しい槍をもらって再度突撃するを繰り返し、敵の隊列が崩れて初めて白兵戦をした。
あまりにも強かったため、ロシア・スウェーデン連合軍は柵を作って戦ったが、ポーランドフサリアはカラコールを使って戦い勝利した。

余談だが、カラコールは本来、相手歩兵の方陣を拳銃で穴をあけ、槍騎兵をねじ込むやり方なのだが、
銃を標準装備とし、槍騎兵の割合が下がった事で構成バランスが崩れ、 火力に勝る歩兵を前に、一列に並んで撃っては下がって装填し、また撃つという戦法になったから使い物にならなかったのである

<注意:ここから若干意味不明になりますが、史実です>

1605年、「Battle of Kircholm」
スウェーデン軍12000人が、2500人のポーランドフサリアがたった1回の突撃により、スウェーデン軍が戦力の60~80%である5000~9000人の死者を出したのに対して、ポーランドフサリアの死者は100人だった。

1620年、「Battle of Cecora」 
ポーランドは負けはするが15000人のオスマントルコ軍に300人のポーランドフサリアが突撃し1000人近くの被害を与えた。

1651年、「Battle of Berestechko」
14万人のコサック・タタール連合軍が7万人戦死したのに対しポーランドの被害は300人

と数々の戦で勝利しているので興味のある人は調べてみるといい。

特にに有名なのは第二次ウィーン包囲時にオスマン帝国に包囲され城壁を砲撃で破壊され、ウィーン陥落は目前の絶望的な状況の時に、
アニメの主人公の如く現れたポーランドフサリアの突撃により、オスマン帝国軍が瓦解し大勝を遂げ、キリスト教を守った兵としてその名を轟かせた。
この話は「ロード オブ ザ リング」で、オーク軍に包囲されたところを駆け付けたローハン軍が撃退する話のベースになっている。
この事件そのものを映画化した作品も存在する( http://youtu.be/ieF14f_qnhc )

また余談だが、クロワッサンはこの時に作られたという。
オスマン帝国軍撃退後、イスラム教を表す三日月のパンを「イスラムを食べてやる」という意味で作ったパンを、ウィーン名物として売ったのが始まりだそうだ。観光地によくある「○○まんじゅう」みたいなもんだ。

またニューヨーク名物として有名なベーグルも、このときが起源だと言われている。
ベーグルとはポーランド語で「馬の鐙」を意味する言葉であり、このときのポーランドフサリアの援軍に感激したユダヤ人ウィーン市民が、鐙の形をしたパンを焼いて当時のポーランド王に献上したのが始まりだとか。

他にもスウェーデン兵を6人も貫き串刺しにしたとか、軽装のスィーパーヒーを6人も貫いて串刺しにしたとか漫☆画太郎みたいな伝説もある。
そんなポーランドフサリアも時代の流れによって衰退していくが、甲冑の一部を外し、ナポレオンの指揮下で大活躍するウーランとして生まれ変わる。

他の欧州の騎兵のほとんどがカラコール戦法にこだわって衰退し、騎兵不要論まで出る時代に、ポーランドフサリアとさんざん戦ったスウェーデンから、
騎兵を突撃戦法に回帰させた「ハッカペル」が生まれたのは偶然ではないだろう。

ちなみにポーランドの騎兵といえば、WW2の時にドイツ軍の戦車に騎兵で突撃をかけたという逸話が有名である。
確かに当時のポーランドは複数の騎兵部隊を有し「槍騎兵連隊」などと呼ばれていたが、野戦砲や対戦車砲・対空砲なども装備しており、戦車どころか砲兵に対しても騎兵突撃をしかけたことは一度もなかった。
そもそもWW2当時、騎兵はまだ各国で現役であり、偵察などの斥候が主な運用法であった。
その中でポーランドは、塹壕陣地を築いていない歩兵に対しては、稀にサーベルやランスで騎兵突撃をしていた。
この騎兵突撃は凄まじく、目の当たりにしたドイツ歩兵は恐怖で壊乱状態に陥った。
しかし戦車や機関銃にはひとたまりもなく、退却する上で残された遺体と馬、そしてドイツの戦車を見た従軍記者が勘違いしたのが真相である。

TurtleShip.png亀甲船(朝鮮) Edit

朝鮮で製作された突撃艦。
今でもその形に論争があり、朝鮮が日本に併合される近代まで朝鮮の主力艦として現存していたのに、
未だにはっきりとした形態が判明されていない珍しいケースである。

この船が鉄甲船であるという説もあるが、戦争当時の朝鮮の記録には鉄甲に関する記述は一切無く、
文禄・慶長の役の海戦記録をまとめた日本側の記録である「高麗船戦記」では鉄甲船と書かれているため、これが、鉄甲を纏った船なのか、鉄のように強かったのか、鉄の釘を使ったのかがあいまいである。

この記録では
「朝鮮側の戦艦は長さ180mで、船を漕ぐオールの長さは24~27mで、6mもする矢を飛ばし、2~3千の兵士が乗船していた」(未来兵器過ぎだろ)
と異常なまでに朝鮮側を強く描いており、亀甲船に関する信憑性も怪しい。

1889年頃に日本で作成された朝鮮の旧式軍に関する記録「武器在庫表」では、「亀船鉄蓋」という部品が記述されており、この時代の亀甲船は鉄甲をを纏ってたそうだ。

ただの木の板では突撃艦として使われてた場合、火力によって貫通するのではないかという異論を唱える人がいるが、木といえども、頑丈な赤松で作られた厚さ100mmの装甲であり、
朝鮮船が日本側の銃撃/砲撃で撃沈した事が一度も無いどころか、貫通した記録も無いほど戦役当時の日本の海戦火力は著しく低いので、木造装甲艦でも十分である。
鉄製装甲艦の始祖は明の「蒙衝」という船である。

それまでの朝鮮の主力艦の板屋船に蓋をし、剣をさして敵が乗りこめないようにし、左右には6門の大砲を置き、後方にも2問置いた。
前方に龍の頭を付け、そこには銃窓があり、狙撃兵を置いて敵の関船や小早などの中小型船の指揮官を撃たせた。
左右に10個ずつの艪を置いているため、高速で移動でき、素材と構造面で脆かった日本船に体当たり攻撃を仕掛けた。

武装は朝鮮式の大砲で、口径が大きい順に天・地・玄・黄の銃筒が存在した。
同じ口径の西洋の大砲で表現すると、天がカルバリン砲、地がセーカー砲、玄がファルコネット砲である。
青銅合金で作られているため放熱が容易だったそうだ。

(ちなみにこれらの大砲を開発したのはゲーム内の朝鮮指導者の世宗の時である)

天の銃筒は丸太を羽と先端を鉄で強化させた丸太ミサイルを撃つのだが、実戦では火薬の消費が多いという事で散弾を込めて撃つ方が好まれていた。
玄と黄の銃筒は兵士が手に持って撃つタイプの大砲である。 こちらも散弾の使用が好まれた。
小火器として槍の先に銃筒を付けた旧式の銃を使用していた。こちらも散弾の使用が好まれた。
文禄・慶長の役の後半、西洋式の大砲が明から入ってくると、こちらも散弾の使用が好まれた。

(散弾好きだなおい)

当時大砲の海戦での有効射程が500mである事を考慮すると、近づけば近づくほどダメージが増加する散弾使用はかなり効率であった。

実は、この亀甲船。文禄・慶長の役では大した活躍をしてはいない。その理由は板屋船で事足りたからだ。

亀甲船は敵の大船からの「上からの」乗船攻撃に備えて作られたのだが、当の日本船は板屋船より小さかったからだ。
板屋船と同格の大型主力艦である安宅船はまだ全体に普及しておらず、旗艦としてのみ運用され、関船や小早が実質の主力であり、
日本が加工に容易で軽い楠や杉を使い、薄い板を繋げた構造している半面、朝鮮は加工が難しいが耐久性のある赤松を使用し、板を魚燐の鎧のように重ねて固定する方式で造船し耐久度を高めていた。
そのため、日本の船で大砲を両脇に付けると構造上の問題とその軽さゆえに大砲の重さと反動に耐えられず転覆するため、大砲は前方に1門か2門に留まり、火力でも差が付いていた。
文禄・慶長の役の後半は、日本の船も大型化し、朝鮮式の船の建造したり鹵獲した大砲の運用を始めると主要戦場が外洋になり、亀甲船は連れて行けなかった。

文禄・慶長の役後は板屋船と亀甲船が朝鮮主力艦として採用され、各時代、各地方の朝鮮水軍によって魔改造と大型化していった。

火力を強化するために大砲を過剰に積んだ事から船の浸水度が増した事で、結果的に船体が低くなる。
既存モデルは、中が密閉されているため、戦況が分からず、他の部隊との連携が出来ない事から、背中に戦況を見極め、命令伝達をする櫓が置かれた。
海戦方式が乗船から、大砲による火力戦へとシフトすると乗船の危険性が減った事から完全密封式をやめ、帆を上げれるように一部開放式になる。
龍の頭は当初、衝突後に船の中央部に陣取る日本の大将を狙撃するために付けられたものだが、火力戦になると威嚇用として硫黄の煙を出すものへと変わり、「別に頭いらなくね?」と頭のない亀甲船も出現する。
亀甲船の後継機として、小型化し、速度と機動力を上げた密封式の戦艦「海鶻(隼)船」も登場する。

実はこのようにさまざまな時代のいろんなタイプの亀甲船の存在と記述が亀甲船の形態を定められない原因である。

あまりにも大型化しすぎたため、湾岸防衛に使うには困難になったため、原点回帰として、朝鮮中後期に李舜臣の亀甲船再現コンテストが行われた。(マジ)
このコンテストで最も李舜臣の亀甲船に似てると評価されたものは、丸っこいずんぐりむっくりとした形の物だが、
落選した亀甲船の方がかっこいいので、現代の韓国によって復元された亀甲船は落選作の方を採用されている。

余りにも詳しく朝鮮水軍の装備や兵士の動線描かれた日本の画法で書かれた絵が日本で発見され、日本の密偵画家が描いたのではないかと思われる朝鮮水軍の絵に書かれた亀甲船では
少なくても3種類の亀甲船を確認できる。
絵画

亀甲船が実在した事は確かで、1885年、イギリス海軍が、朝鮮の巨文島を占拠する時に亀甲船を目撃している。
文禄・慶長の役後、日本と明両国で亀甲船と同じコンセプトの船が誕生しているのを見ると、かなりインパクトだったようだ。

Nau.pngナウ船(ポルトガル) Edit

ナウ船の能力は世界中を冒険し、
持って帰ってきた積み荷で金を稼いでいた船団や船員が
ポルトガル海軍の基礎となった成り立ちからの能力です。

世界初の世界一周をしたマゼランもポルトガル人であり、
あるヨーロッパ人が西南アジアの地方の港に停泊すると、現地人がポルトガル語で話しかけたという逸話が残っており、
当時の世界共通語はポルトガル語であるほど、大航海時代のポルトガルの地位は大変凄まじいものでありました。
世界各地と交流し、隙あらば軍を送って攻め入って占領し、壮大な海洋大国を築きます。
しかし、それがポルトガルが滅亡したきっかけでもあります。

当時のインド貿易(東アジア世界との貿易全般を指す)は、確かに利率は良かったと言われております。
例えば、マゼランも船を1隻を除き、船団を全て失ってポルトガルに戻ってきたが、
その1隻が持ち帰ってきた積み荷は、失った全てを補って余るほどの利益を生み出したそうです。

送り出した船団の半分が帰ってこれれば、上々であり、国家予算レベルの利益が生み出されます。
しかし、いくら利益を得たとしても、船も大変高価なものであり、船員はより貴重な資源であります。

元々、ポルトガルは国内の経済力/国力が弱いため、海外貿易をやり続けるのには限界がありました。
しかし、国家財政を海外貿易で全てを補っていたポルトガルは海外貿易の回数/規模を拡大。
それに伴い、船も船員も失い続け、国内の男性人口が減少します。

船員/兵士/船大工/その他もろもろの労働力が不足するようになると、植民地や海外から雇った傭兵や人員で補填するようになり、
それ故にポルトガルでは黒人奴隷との結婚が起きるなど、ポルトガルでは他の欧州国家に比べ人種差別が弱い文化が育まれます。

しかし、根本的な解決にならず、ポルトガルは自滅の道を進むことになります。
熟練した船員/兵士不足、人を集めようにも男性不足により、アジア植民地も攻め入ることはありましたが、ことごとく返り討ちにされ、
苦労して稼いだ海外貿易の富をポルトガル王室は不正に蓄財したことで国力は更に疲弊、
アジアにおけるポルトガルの地位は加速度的に薄れていき、後発組であるオランダやイギリス、スペインにシェアを奪われることになります。
ゲーム内で海軍戦力としては微妙なキャラベル船の代替ユニットであるのは後にオランダ/イギリスに追いやられる所の再現とも言えるでしょう。

SeaBeggar.png海の乞食団(オランダ) Edit

乞食と聞いて良いイメージを持つ人はあまりいないだろう。
しかし、そのようないわゆる卑しい身分とされる人々でも時には大国をも圧する力をもつことがあるというのは歴史においてしばしば起こる現象なのだ。

それはオランダがまだスペインの支配下にあったころの話である。
1517年10月より起こったルターの宗教改革はカトリックを第一に据えていた西欧諸国に計り知れないインパクトを与え、時を経るごとにドイツやネーデルラント、北欧を中心にプロテスタントこと新教を信じる者が爆発的に増えていった。
しかし、これまで宗教を通じて様々な利得を得てきた旧教(カトリック)国がこれにいい顔をする筈が無く、スペインやフランスを中心に新教の弾圧が始まった。
旧教国の反発はこれに留まらず、教皇庁を中心にカトリック改革(対抗宗教改革とも呼ばれる)が実行され、トリエント公会議では贖宥状の販売を禁止するなどのカトリックの腐敗を是正すると共にルターが破棄した部分を正典としたりして新教を真っ向から否定する事を決定した。
これを受けて、非常に敬虔なカトリックの信徒にしてスペインの最盛期に即位した国王、フェリペ二世はネーデルラントなど新教が広まっている属領を徹底的に弾圧した。これに怒ったネーデルラントの新教信奉者たちは1566年に団結して自らを「ゴイセン(乞食)」と呼んだ。これがネーデルラントのプロテスタントをゴイセンと呼ぶ所以である。
この翌年の1567年よりイタリア戦争での功績を認められてネーデルラント(現在のベネルクス三国)の総督となったフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(俗にいうアルバ公)もその実行者であった。アルバ公は血の審判所と呼ばれる機関を設けて、新教を信ずる諸侯や貴族を次々と処刑する恐怖政治を行ったのだ。アルバ公を恐れたゴイセン達は海に逃れて船上にてスペイン及びアルバ公に反発した。これが海の乞食団(ゼーゴイセン、ワーテル・ヘーゼン)である。
これを組織したのがあのオランダの指導者、オレンジ公ウィリアムである。彼は元々カール五世(フェリペ2世の父親)の侍従でありネーデルラントに所領をもつ大貴族だったがアルバ公に所領を没収されたことに叛意を持ちスペインに挑戦することになった。彼は先述したとおり海の乞食団を組織してスペインを散々に苦しめて、オランダの貴族の好感を得、ホラント(余談だがこれがオランダの語源となる)やゼーラントの総督に就く。そこを足がかりにしてアムステルダムやユトレヒトも吸収して1580年にこれら北部諸州を統合したユトレヒト同盟を結成し、現在のオランダの原型を作り上げた。(その一方で現在のベルギーにあたる南部諸州はカトリック信徒が多かったためアラス同盟を組んでスペインに恭順することとなる)そして翌年の1581年にはスペインからの支配を離脱を宣言したのである。

しかし、この後もスペインとの戦争は続き、ネーデルラントが公式に独立国として認められるまでは70年弱後に締結されるウェストファリア条約を待たねばならなかった……。

ShipofTheLine.png戦列艦(イギリス) Edit

海戦で大砲が登場する以前の戦艦は、欧州の場合ガレー船が主力で、弓や石弓(ボウガン)が使われ、相手の船に乗り込んで白兵戦をするか、船を相手の船に衝突させて沈めるのが基本的な決着のつけ方であった。
このガレー船同士の戦いは、オスマンとヴェネツィア・神聖ローマ帝国等の欧州連合との戦いであるレパント海戦を最後に、時代は帆船へと移る。
この海戦以後、戦闘艦の価値は時間当たりでの砲撃の数で評価されるようになる。

当時の大砲は火薬で砲弾を飛ばし、砲弾の衝撃でダメージを与えるため、1発で船を撃沈させる威力は無かった。(例外として、火薬庫のある所を貫通された場合、爆発した)
ゆえに戦闘不能にさせるまでの時間を早めるため、より多くの大砲を装備可能な複層甲板構造の艦船が開発され、砲撃にも耐えうる船が要求された。その過程で生まれたのが3層甲板のガレオン船である。

戦列艦はより多くの大砲を搭載できようにしたガレオン船の最終進化形態の艦船であり、左右に砲門が集中しており、船首と船尾がほとんと無防備であった。
そのため、いくつもの艦船で1列になって弱点である船首と船尾を埋め尽くすと同時に火力が集中した側面を敵に向けて火力を集中させる単縦陣を取った。
イギリスのガレオン船はこの単縦陣を洗練させた事から戦列艦と呼ばれ、後に各国が模倣することで戦列艦が海戦の主役になった。

戦列艦は蒸気機関の勃興とともに衰退を始めた。蒸気帆船の戦列艦も登場したが、港の石炭の貯蔵量の増加と石炭の供給網構築、エンジンの洗練などを経て、風向きに左右される帆はただの負担となり始める。
また、造船技術の発展とともに鉄甲船の登場や回転砲塔・炸裂砲弾・魚雷などの新型兵器が開発されると、海戦の主役の座は戦艦・巡洋艦・フリゲートなどに譲られた。

しかし、船の長細い構造的限界上、戦列艦の戦法は戦艦でも有効であり、戦列艦戦法を応用し、日露戦争で勝利したのが「日本海海戦」である。

戦列艦の定義は各国により差があり、時代によって改定されるので一概には言うことはできないが、ここではナポレオン戦争期イギリスの分類(1801-1817)に基づき紹介する。
イギリス海軍では軍艦を搭載カノン砲数及びマストの数で分類しており、三本マストを持つ帆船だけが「シップ」と呼ばれ、44門以下の5等艦、28門以下の6等艦をフリゲートとした。
更に48門以上を持つ三本マスト船「シップ」の中でも64門以上搭載の1等艦(100門-120門)から3等艦(64門-80門)の艦のみが「戦列艦」と正式に分類されていた。
尚、ナポレオン戦争終結頃にイギリスが保有していた「戦列艦」は100隻程度である。

主にイギリスでは3層甲板を採用していたが、スペインやフランスでは2層甲板を採用していた。スペイン、フランスの船は比較的弱く見えるかもしれないが、そうでもない。
イギリスの3層甲板は波や風で海が不安定だと最下層の砲門は閉めたまま戦っていたが、2層甲板は比較的波風に火力が影響を受けなかった。
また、イギリスの戦列艦はスペイン、フランスの戦列艦より小さく、内部空間が狭いため、動きづらく不便であり、被弾すると人的・物的被害が甚大で修復に困難であった。

一例として挙げると、
1740年4月にスペイン70門戦列艦「プリンセッサ(princessa)」はイギリスの70門戦列艦3隻と交戦したが、最終的に降伏するものの6時間も戦い続けた。
プリンセッサの大きさが、イギリスの90門戦列艦と同級のため、安定性に優れていたためだ。
また、アメリカ独立戦争期にはフランス海軍がイギリス艦隊に大勝している。

スペイン、フランスがイギリスより優れた造船能力を持ちながら負けている理由は、主に海軍政策の違いからくる戦略の違いの結果である。
陸軍国家にとって海軍のみに投資できない事情があるため、海軍は敵艦の撃破より戦力キープする事を主軸に行動していたためだ。

世界最大の戦列艦であるスペインの「サンティシマ・トリニダー」(正式名称:ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダー )は長さ63m、横幅16m、乗員数1071名、140門の大砲を搭載した超巨大な戦列艦であるが、これほどの艦の大型化は風を動力とする帆船では限界でありとてつもなく鈍重で、元々3層砲甲板設計の物を4層へ強引に改修したことにより安定性に難があった。後述するトラファルガー海戦において降伏し漂流していたところを暴風雨に遭い沈没する。

戦列艦の実際の海戦での使用は大変少なく、主力は機動力のある20門~50門のフリゲートや、20門以下のコルベットやスループが活躍した。
戦列艦は風を受けても非常に遅い。また、方向転換するのに10以上の人が動かさなければないらないなど、海戦での運用が難しく、決戦兵器の意味合いが大きかった。
なので、来るべき決戦に備えて待機してるか、敵の港を封鎖するために使われた。
一度、戦列艦に港を封鎖されてしまうと、戦列艦を相手できるのは戦列艦だけなので、相手に戦列艦がない場合、港にいた艦隊は稼動できず、海岸で籠城するしかない。すると大きな収入源である海外貿易の貿易船を拿捕されてしまうのである。
欧州の国々が戦列艦作りに威信をかけたのは、それほど戦列艦は強烈な兵器であったためである。

ナポレオン以前の戦列艦同士の戦いは、互いに砲弾を打ち合うのだが、互いに砲弾の威力も弱く、船が頑丈に作られていたため、なかなか勝負がつかない事が多かった。
たまたまうまく砲弾が砲門に入ったり、船のど真ん中を貫通して船員をひき肉にする以外は、船員らは木の破片による軽傷であった。主な負傷の原因は、大砲を扱わない水兵の射撃と白兵戦による斬撃であった。

戦列艦でのもっとも有名な戦闘はイギリス海軍とフランス・スペイン連合艦隊が戦ったトラファルガーの海戦であろう。この戦い以前の戦列艦の戦法は単縦陣同士の撃ち合い→乱戦というものであったが、この戦いにおいてネルソン・タッチが編み出された。

これを可能したのが、イギリス海軍で使用していた「フリントロック式点火装置」である。
イギリス以外の国では、海戦で使用される大砲は、自ら火皿の位置を目で確認し、火縄を調整し、火縄を火皿に狙いを付けて近づける方法を取っていた。
イギリス海軍が使用したフリントロック式点火装置は、この手間を一気に省略する事で、次の砲撃までにかかるインターバルを短くする事が出来た。
結果、大砲をより多く積む3層甲板の特性と相まって、爆発的に火力が上昇したため可能になった戦術である。

しかし、皮肉なことに、これが戦列艦の最後の大規模な戦いになったのであった。

NorwegianSkiInfantry.pngノルウェーのスキー歩兵(デンマーク) Edit

MehalSefari.pngマハール・セファリ(エチオピア) Edit

Carolean.pngカロライン(スウェーデン) Edit

Cossack.pngコサック騎馬隊(ロシア) Edit

日本人にとって『コサック』と聞いたら、腰を低くし、腕を組んで足を速く投げ出しながら踊るコサックダンスをまず連想するだろう。
勿論、コサックダンスはウクライナの民族舞踊の一つでありウクライナ語では『ホパーク』と呼ぶ。元々はかつてこの地に存在したキエフ大公国を滅ぼしたバトゥ率いるモンゴル帝国の武術であり、それが簡素化されて、「タタールの軛(モンゴル人による支配)」から逃れた後も形を変えて残ったものなのだ。
銃の普及に伴って下半身を鍛えるという訓練の意味合いで用いることもあり、コサック・ダンスは当初主にコサック内もしくは男性によって踊る事が多くあった。コサックは独身によって構成されていた為女性が入る余地は無かったのだ。17世紀後半にウクライナを支配していたポーランドから独立し、コサックによる国家(ヘーチマン国家)が誕生するとコサック独自の踊りだったホパークは民謡としての性格を持ち、老若男女問わず踊る大衆的なものに変化していく。
しかし、それから100年ほど経つとポーランドやロシアによってヘーチマン国家は分断され、その統治権も有名無実と化していった。露土戦争によってロシア帝国がウクライナを手中に入れると散々マゼーパ将軍やステンカ=ラージンなどの反乱でロシアを苦しめてきた経緯を鑑みてかコサックの伝統を徹底的に禁止し、ホパークもまたその煽りを受けた。以後、コサックダンスは民謡としてのみの性格を持ち、農民の間で踊られるようになる。
19世紀に入って農民の間でコサックダンスを取り入れた劇場が流行すると、プロの劇作家たちもこれに注目し、20世紀にはロンドンにおいてもコサックダンスによる演劇が行われた。ロシア帝国にかわって政権を掌握したソ連は文化を共産主義礼賛の道具にしか見ていなかったため、それに資することは無いと判断されたコサックたちは国家による支援を全く受けることが出来ず貧窮していった。一部には反乱をおこすものもいたが勿論鎮圧され、ソ連の下、コサックは冬の時代を経験する事になった。とはいえ、ショローホフのコサックたちの逆境を描いた『静かなドン』(静かなるドンではない)のおかげでコサック文化が完全に廃れるということはなく、細々ながらもコサックはどうにか存在を確立している。やがてソ連が崩壊し、ウクライナが独立すると再びコサックはウクライナ文化の中心として日の光を浴びることになった。現在においてもウクライナの紙幣には二体のコサックが描かれているのだ。

さて、前項においてはコサックダンスの話からウクライナ・コサックを中心にコサックを見たが、次は全体からコサックの話を見てみることにする。
コサックの起源は不明な点が多く、はっきりとはしてないが最古のものは黒海の内海にあたるアゾフ海に注ぐドン川流域に居たドン・コサックと現在のウクライナ南部一帯に居たザポロージャ・コサックの二つあったとされている。
当初のコサックはヨーロッパの没落貴族や盗賊、逃亡してきた農奴などからなりたつ、俗な言葉でいえばゴロツキの集団と言って差し支えは無く、黒海やアゾフ海周辺を荒らしまわった。しかし、それは普段の姿であり、セルジューク朝など黒海周辺にまで触手を伸ばそうとするイスラムの諸勢力と戦う事もしばしばあった。
16世紀後半に入ると支配国からの支援や保護を受け、ザポロージャコサックはポーランド=リトアニア王国に、ドンコサックはツァーリの下で活躍することになる。しかし両国はコサックを軍団として用いるのみならず、コサックの自治権そのものを奪う事も画策していた為徐々に反感を買う事になり、17世紀から18世紀にかけて反乱を起こし続けた。世界史の教科書に主に取り上げられるのはステンカ=ラージンとプガチョフの二つの反乱だが、いずれもドンコサックの反乱であり、両方とも鎮圧され、ロシア帝国の体制下に組み込まれる。ロシアは当時強国の道を歩んでいた為当然と言えば当然である。しかし、ザポロージャコサックは斜陽著しきポーランド=リトアニア王国だった為か上にあげたとおり自らの国を建国(ヘーチマン国家)し、支配権を勝ち取った。これは現在のウクライナあたりにあった為、オスマン帝国やクリミア・ハン国などの脅威から(皮肉にも)ロシアを守っていた為、間接的に支援する事になった。そしてまた皮肉にも国家を作っていた事や、コサックの近代化に反発して自立を主張しすぎたために皇帝の反感を買って18世紀の終わり頃にザポロージャコサックは壊滅させられることとなった。
では残ったドンコサック達はどうなったのだろう。19世紀になると彼らは普通の市民たちや貴族と同じような階級に列せられ、税金が免除される代わりに騎兵として兵役を負う事になった。ナポレオンが1812年に自らを破滅に追い込む契機となったロシア遠征を行った際にもコサックたちは8万と言われる数を動員され、主に(ナポレオンの)退却戦において功績を残した。コサックは俊敏な動きで疲労困憊のフランス兵を次々と屠ったのだ。(恐らくこのユニットの負傷した敵へのボーナスはここからきていると思われる)
また、ドンコサック以外にも黒海東沿岸に居たクバーニコサックもロシアの様々な戦いに参加し、功績を残す。また、このような戦闘以外にも辺境の警備や治安維持といった職務もこなす。
しかし、コサックたちは火器の急激な発達による戦列歩兵の台頭などによってコサックは段々とその立場を引きつつあった。(尚、日露戦争の際にもコサックは従軍している)
コサックに不幸が降りかかったのは1917年からはじまるロシア革命からである。ロシア帝国に押さえつけられていた各地のコサックは白軍としてソヴィエトと戦い、白軍の主力となって赤軍にただならぬ損害を与えたが敗北し、祖国を追われることになった。また前項であげたとおり、ソ連はコサックに対してなんら支援をせずこれまでの経緯から反乱分子とみなされて次々と処刑されたり縄目を受けたり追放されたりと多くは悲惨な運命をたどることとなった。しかし一部にはソ連に降伏したコサックもおり、1936年には赤・コサック軍として戦線に復帰する事になった。それ以外の追放されたコサックは独ソ戦においてドイツ軍の味方をしソ連に復讐を果たそうとしたがどうなったかは読者の知るとおりである。
ソ連が崩壊すると、コサックたちの復権が命題としてかがげられるようになり、現在のロシアでは学校教育のプログラムに取り入れているほどである。また、現在コサックを自称するものは数百万人ほどいるとされているが真偽のほどは不明である。

最後にコサックの帽子について説明しよう。
コサックと聞いたら、毛皮の暖かそうな縁なし帽を想像する人もいるだろう。あれは『パパーハ』と呼ばれ、コサックやカフカス人の誇りの象徴である。
パパーハは誇りであるが故に滅多な事で脱ぐことは許されず、死を覚悟する争いに臨む場合や、その逆で争いをやめるよう懇願するときに脱ぐことが許された。
パパーハはコサックの象徴であるが故にソ連時代やエリツィンの時代では赤コサックや高官のような例外を除き着用が許されなかったが、2005年に漸く正式な軍装として復活したのだった。

Hussar.png軽騎兵(オーストリア) Edit

日本語では軽騎兵となっているが、英字では「Hussar」であり、フサリアと同じである。
英字では
ポーランドの方を「Winged Hussar」
オーストリアの方を「Hussar」
で区別している。

日本語版では先に出たこちらの方を軽騎兵と訳した。
間違ってはいないが、典型的な軽騎兵を表す「ユサール」、「ハサー」がより正確である。
この項ではUUの「軽騎兵」を便宜上「ユサール」と呼称します。

(発音だけ見れば「ヒュウサール」が近い)

ユサールはフサリアの項でも記述したが、セルビアから始まった兵科である。
セルビアには伝統的に略奪者を意味するグサール(Gusar)という軽騎兵を運用していた。
グサールは木製の盾と、中東式の生地の中に金属を編み込んだ防具で武装し、騎士を援護する軽騎兵であった。
グサールの主な任務は斥候や追撃であり、これはのちのユサールと同じである。

15世紀にオスマン帝国に寄ってセルビアが陥落すると、
多くのセルビア兵がハンガリーに移ったのが、ユサールの始まりである。

ハンガリーでも中世から伝統的に騎兵を運用しており、
「フサリロイ(Chosarioi)」という傭兵の軽騎兵が存在していた。
ここにセルビアが滅んだことから、逃げてきたセルビア兵を吸収し「ユサール」という軽騎兵の基礎ができた。

ここに、ハンガリーの王であるマーチャーシュ1世が国王親衛隊として「黒の軍団」を創設。
その黒の軍団で「ユサール」を主力軽騎兵として組織し、「ユサール」という兵科が誕生した。

マーチャーシュ1世の征服事業に使われ、オスマン帝国のスィパーヒーと同等に戦い、その実力を見せた。
ハンガリーの全盛期を築いたマーチャーシュ1世がオーストリア大公とボヘミア王を兼任している時に死んだことから、
ユサールは東ヨーロッパに広まった。

17世紀まではユサールは、
オーストリアやポーランド、例外的にハンガリーを滅ぼしたオスマン帝国などの東ヨーロッパだけに見られる兵科であった。
東ヨーロッパでもロシアでは既にコサックという兵科が存在していたため、ユサールはごく少数しか存在しなかった。

ユサールが欧州に広まったきっかけは2つある。

1つ目はハンガリー独立戦争である。
ラーコーツィ・フェレンツ2世によって起きたハンガリー独立戦争は、ハンガリーのほぼ全域を奪還するが、
部下の裏切りによって失敗した独立運動である。
独立の失敗により、多くのハンガリー人が欧州へと亡命し、それに伴いユサールも欧州に渡った。

2つ目はポーランド・リトアニア共和国の財政難である。
自然災害や貴族による脱税、コサックの反乱、度重なる諸外国との戦争、貴族議会の混乱によって国政が崩壊すると、
高水準の装備を施した大規模騎兵部隊の維持が困難になり、フサリアからも脱走兵が大量に発生した。

これに目をつけたのが、プロイセンのフリードリヒ2世である。
1741年、フリードリヒ2世はポーランドの脱走兵とハンガリー人からなる5個連隊を編成すると、
1944年、1945年にはプロイセン人のユサール連隊も複数編成し、
ポーランド継承戦争や七年戦争に投入した。

そこでユサール隊は斥候任務や敵部隊に対して側面や後方を攻撃する役割を担い、勝利に大いに貢献した。
そのため、フリードリヒ2世もユサール隊を特別扱いし、ハンガリーの伝統衣装の着用を許した。
フリードリヒ2世の勝利によってユサールは欧州各地に知れ渡ることなり、各国でこぞってユサールを編成するようになった。

欧州に広まったユサールは軽騎兵として不動の地位を手に入れ、
各国の軽騎兵は全てユサールに編入され、ドラグーンや胸甲騎兵もユサールに編入しようとする動きもあった。
これは騎兵が騎兵が戦争の主役ではなくなり、重騎兵がいらないと認識したためでもある。

これに対し、ナポレオンはポーランドに残っていたフサリアの後輩ともいえる槍騎兵「ウーラン」を
ユサールに対するアンチ兵科として運用し、勝利したことから一時的に槍騎兵ブームが起きるが、使い勝手は悪いという理由で主流とはならなかった。

欧州に広まったユサールは、植民地であったラテンアメリカにも自然と伝わり、現地人からなるユサールが誕生した。
ラテンアメリカ解放運動に、この現地人からなるユサール隊が大活躍した。

BerberCavalry.pngベルベル人の騎兵(モロッコ) Edit

ベルベル人は、アフリカ北西のマグリブ地域(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアなど)に居住していたコーカソイド系の先住民族。
トゥアレグ、カビル、シャウィア、ムザブなどを始め大小様々な部族が広い地域に分布しており、一部のアラブ部族の祖先ともされている。

Civ5では産業時代のUUとして登場し、ライフルを持ち馬に騎乗しているベルベル人の騎兵だが、そのルーツは古い。
ベルベル人によるヌミディア王国は紀元前200年頃にカルタゴと同盟を結び、共和制ローマとの戦いへヌミディア騎兵を送る。
当時は鐙(あぶみ)がまだ発明されていなかった時代であり、鞍と手綱で馬を自由自在に操るヌミディア騎兵は、その機動力で敵の重騎兵を圧倒した。
その後、ヌミディア騎兵はローマ軍の部隊としても活躍しており、歴史家リウィウスは、ヌミディア騎兵を「アフリカ最高の騎手」とローマ建国史に記している。

ちなみにベルベル人は馬だけでなく、ラクダの扱いに関しても非常に優れている。
ベルベル人は3世紀頃からラクダを家畜化していたとされ、6世紀から7世紀頃に砂漠化が進んだサハラ地域では、ラクダによる交易が重要な収入源となる。
サハラ砂漠を縦断する交易路は、主に地中海側から産出される塩と、西アフリカから産出される金を取引することで莫大な収益を得ることが出来た。
略奪や遭難などの危険が常に伴う隊商を護衛し、サハラでの通商を取り仕切っていたことで有名なのが、ベルベル人系遊牧民のトゥアレグ族である。

ComancheRiders.pngコマンチ騎兵(ショショーニ) Edit

コマンチェ族による騎兵。白人以上に馬を乗りこなしたコマンチェは、米陸軍をして「世界最強の軽騎兵」と呼ばしめた。コマンチェ族は戦闘部族であり、コマンチェ騎兵とはとりもなおさずコマンチェそのものである。

16世紀に旧世界からやってきた馬をもっとも自文化と融合させたインディアン部族のひとつがコマンチェ族である。コマンチェはワイオミング州に居留するショショーニ族の一派であったが、17世紀末ごろ分派離脱してグレートプレーンズを南下した。ニューメキシコ州ではおなじころ、スペイン人の奴隷下にあったプエブロ族が反乱を起こし、入植者たちをニューメキシコから追い出す。そこで飼育されていた馬はいっせいに野生化し、ムスタング種となって北米大陸に定着した。当のプエブロ族は馬に関心をしめさなかったが、かれらを長い間襲撃しつづけたアパッチ族や、コマンチェやスー族をはじめとする平原インディアンの戦闘部族は積極的に馬をとりいれた。これを境に、インディアンのあいだで騎乗文化が発達していく*1

コマンチェはもともと犬ぞりを用いる平凡な狩猟採集民族であった。彼らを最強の戦闘部族に仕立てあげたのが馬である。馬はたくさんの財を持ち運びできるし、下生えがそのまま餌になるため飼育の面倒もすくない。そしてあらゆる必需品をバッファローの骨皮から作ったコマンチェにとり、バッファローハンティングの効率化という点で馬はたいへん魅力的であった。いつごろ馬を導入したかは不明だが、すくなくとも1706年、メキシコ領に馬泥棒をはたらいたことがスペイン側の記録に残っている。

コマンチェの男児は馬とともにある。4〜5歳ごろから個人の馬をあたえられ、狩人として、戦士としての資質を磨いた。雑事はすべて奴隷や妻たちの仕事である。子供たちはつねに集団であそび、競争や賭け事をした。そして年頃を迎えた男子はビジョンクエストというイニシエーションを経て大人社会の仲間入りを果たすのである。これはインディアン社会に広くみられる通過儀礼で、コマンチェのそれは単独で荒野におもむき、タバコの酩酊感、瞑想、断食のなかで幻視を見るというもの。そのときに見たヴィジョンから己のプーハ(霊的パワーの源泉)がなんであるかを見出すのである。

かれらの主兵装は弓、槍、楯である。ことに騎射のテクニックはユーラシア遊牧民族と遜色ないレベルに達し、50ヤードからの命中率は80%であったという。矢じりは命中後に変形する一種のホローポイントで殺傷力が高い。バッファロー皮を張った楯はライフル弾すら防ぎ、槍さばきはそおろしく精密に命を奪った。人馬一体の体術も得意とし、輪縄で馬の首を締めたり、鞍上から地面の負傷者を掬いあげたり、馬の馬体に隠れて銃矢を防ぐなどした。銃火器は後装式が普及するまでは頻用しなかった。
こういった馬上からの攻撃術は、1830年代までコマンチェの専売特許といえた。ほかのインディアン部族や入植者たちは、戦場では下馬して戦うのがつねであった*2から、コマンチェは機動力や攻撃力において絶対的なアドバンテージを保った。

かれら平原インディアンはゲリラ襲撃による一撃離脱戦法をとった。いわゆる会戦、決戦のたぐいはせず、つねに奇襲によった。なかでもコマンチェは乗馬したまま矢じり陣形でいっせいに隊列につっこみ、円をえがくようにかすめて攻撃を加える。たいていの敵は下馬して戦うのがつねであったから、係留されている馬を無力化することを重視した。そしてそのあとはちりぢりに逃げてしまう。移動手段を奪われた側は追撃も退却もままならず、コマンチェの襲撃におびえながら荒野で野垂れ死ぬわけである。砦などの固い目標も無視し、もっぱら入植地を襲撃した。
住民は拷問の末に皆殺しにされる*3か、奴隷にして友好部族に払い下げられたり、身代金ビジネスの種になったりした。10歳くらいの小児にかぎり、例外的に養子にとられた。これは馬上生活のせいで流産率が極端に高いこと、戦死者が絶えない事情による*4。標的はあらゆる部族、人種に及んだ。わずかにカイオワ族をのぞき、基本的にすべての部族と敵対する略奪民族であった。
一方、被害の見込まれる状況ではぜったいに交戦しなかった。潰走させた敵を追撃するのも皆無であったらしい。たとえ勝機がある場合でもリスクを取ることをいっさいしないのがかれらのウイークポイントであった。また戦闘と宗教観は分かちがたく結びつき、しばしば占いによって交戦するか否かを決めた。またリーダーの戦死はかれの霊的パワーの喪失とイコールであり、残存兵はいっせいに士気を喪って潰走してしまうこともあった。
コマンチェの行動半径は400〜500マイルに達した。7時間でおよそ50マイルを走破し、コマンチェリアと呼ばれるテキサスとニューメキシコの勢力範囲内ならどこにでもあらわれた。地形から現在位置を把握し、どんな土地にもまよわず辿りつけたという。襲撃は夜間、月明かりをたのんで満月に行われた。テキサスではいまでも春や夏の満月の夜を「コマンチェの月」といいあらわす。

コマンチェに馬をもたらしたのはスペイン人だったが、銃を最初にもたらしたのはフランス人である。ルイジアナを抱えるフランスは、領土拡張をすすめるスペインやイギリスのような入植活動は積極的にせず、商圏を構築して周辺部族と関係を深める方針を取った。この一環で1720年ごろにはコマンチェやアパッチに銃器がもたらされた。そのフランスが新大陸から手を引くと、こんどはコマンチェロとよばれるヒスパニック商人が主な取引先となった。弾薬、嗜好品、日用品がかれらを経由して白人圏からもたらされた。
コマンチェは当初、銃砲をそれほど重要視しなかった。マズルローダーのリロードの不便さのためである。馬上においては弓矢のほうがよほど連射がきいた。1860年代にリボルバーやカービンが普及し、これが概ね解消されると、コマンチェもしだいに銃器を用いるようになる。入手ルートはコマンチェロだけでなく、インディアン管理局の腐敗に乗じて、スペンサー銃やヘンリー銃など当時最新式のレバーアクションを取り寄せさえした。

1840年代までは、コマンチェはまさにテキサスの主であった。狩猟者にして戦士というアイデンティティによって生き、日常的な略奪行為がその想いを強めた。だがユーラシア由来の疫病は19世紀もなお流行し、インディアン社会の人口を減じつづけていた。そして白人は増えつづけた。1846年にテキサス共和国がアメリカに編入され、メキシコに対するバッファの役割を失うと、移民が大挙しておとずれ、人口密度はあっというまに数十倍になった。白人ハンターはバッファローを異常なペースで狩りつづけ、期せずして平原インディアンに対する致命的な兵糧攻めとなった。
アメリカ人騎兵隊は下馬歩兵のスタイルをやめ、連発式のコルトリボルバーやレバーアクションで馬上から射撃するようになった。かれらはコマンチェに恨みをもつアパッチ系の斥候をすすんで雇い、インディアンのやりかたを取り入れたのである。スペンサー銃とシャープス銃はコマンチェ弓とは比較ならないほどの高射程・高連射力をもたらし、戦いはついにアメリカ人のものとなった。コマンチェもレバーアクションやカービンで武装し、「最強の軽騎兵」と呼ばれるのだが、その時期はごく短期間にとどまる。最終的に「最後の酋長」クアナ・パーカーが1875年に降伏して居留地への移住をし、コマンチェはアメリカ合衆国の法のもとにくだった。

ForeignLegion.png外国人部隊 Edit

その名の通り、外国人による職業的軍人集団である。
一般的に、兵~下士官が外国人、士官がその国の人間である事が多い。

無印、GaK時代はフランスのUUであった事からもわかる通り、外国人部隊と言えばフランス外人部隊が最も有名だろう。
ではフランスは何故外国人部隊を設立したのかというと、かんたんに言えば自国民だけでは兵隊をまかなえなかったからである。

近代国家の成立以降、ほとんどの国ではそれまでの傭兵部隊に変わって徴兵制の国民軍を導入した。
その嚆矢となったのが他ならぬフランスである。あらゆる階級の国民を平等に徴兵し、愛国心という絆で繋がった国民軍は、
フランス革命戦争とそれに継ぐナポレオン戦争において、君主制諸国の傭兵部隊を物量と戦意で圧倒したのだ。

しかし、皮肉にもナポレオン戦争がフランスに外人部隊が誕生するきっかけとなった。
ロシア遠征の凄惨な失敗(一説には、属国を含めて80万を動員したうち、無事に生還したのは5千人未満)によってフランスの徴兵人口は激減。
徴兵人口=健康な成年男子=次世代の生み手であり、必然的にその後も人口は伸び悩み続けることとなる。
そこへ追い打ちをかけるように1830年にアルジェリア征服戦争が始まり、さらに多くのフランス人将兵がその命を散らす事となった。

兵力の枯渇に加えて、自国民の犠牲に対する反対世論の盛り上がりを恐れたフランス政府は、それまでの傭兵ではなく、外国人によって構成される正規軍としての外人部隊の設立を決定。
1831年3月10日、ルイ・フィリップ国王の署名によってフランス外人部隊が誕生した。

誕生の経緯から、当初は北アフリカに置けるフランスの権益保護を主任務としていたフランス外国人部隊であったが、
その後クリミア戦争、イタリア統一戦争、メキシコ、仏領インドシナ(当時)など世界各地で活躍するようになる。
ゲーム内の能力「自友国領外での戦闘に20%ボーナス」はこのあたりに由来すると思われる。

今日も、フランス外人部隊はフランス陸軍の正規部隊として存続。
8個連隊、1個准旅団、1個分遣隊に136カ国計7699人が籍を置き、今日もフランスのために世界各地で戦っている。
最もその任務は、創設のきっかけとなったアルジェリア戦争と同じく、自国民を投入する事に世論が納得しない、過酷でダーティなものである事が多い。

ちなみに、今日では予算削減(と書類上の戦死者数のごまかし)もかねた軍の任務のアウトソーシング化が進んでおり、後方のみならず最前線にもPMC(民間軍事会社)が参加する事が多い。
その社員達は世界中から集まった多国籍集団であり、そういう意味では外人部隊である。
BNWにおいて思想「志願制軍隊」で維持費無料効果とともに手に入る外国人部隊は、ひょっとしたらPMCの社員達なのかもしれない。

以下は余談。
初代ナポレオン・ボナパルトがエルバ島に追放されて100年後の1914年、一人の男子がこの世に生を授かった。
父はナポレオン5世、母はベルギー王室の王女。
少年の名はルイ。後のナポレオン6世である。
奇しくもヨーロッパを戦乱に巻き込んだ男の血を引いた男が、第一次大戦勃発の年に生まれたということになる。
そのことと関係があるのか、それともボナパルト家の末に生を受けた誇りがそうさせたのか、少年は愛国心あふれる青年へと成長していく。
1939年、ナチスドイツがフランスに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発すると、ルイは当時の首相であったエドゥアール・ダラディエに手紙を送った。
侵略者と戦うために軍に入隊したい、と。
しかしすげなく断られた彼は、全く諦めるそぶりを見せず、偽名を使ってフランス外人部隊に入ってしまうのだ。
ナポレオンが、外人部隊である。フランスUUも納得の組み合わせだ。
ルイ・ブランシャールを名乗り、一介の外国人として北アフリカで戦うナポレオン。場所こそ違えど、アフリカに縁のある一族である。
その後、フランス降伏により、所属していた外人部隊が解散を命じられると、ルイはまったく諦めることなく、今度は自由フランス軍に入隊することを決意する。
目指すはド・ゴールの亡命先であるイギリス。ところが、このときはドイツ軍に捕まってしまう。
釈放後、ルイは別の偽名を使いレジスタンス活動や、フランス山岳部隊に所属し、20代を祖国を守るために費やすこととなる。
レジスタンス活動中は従兄弟を戦闘で失い、また自分を除き仲間が全滅するという事態にも遭遇した。
そんな愛国心の塊の彼は、一つの奇妙な遺言を残している。
それは、孫ジャン・クリストフ・ナポレオンにボナパルト家の家長を継がせる、というものである。
長男であるシャルル・ボナパルトを差し置いて、だ。
それはたった一つの理由によるものではないかと考えられる。
ジャン・クリストフ・ナポレオンは、ナポレオンの一族である息子・シャルル・ボナパルトと、かつて革命でギロチンにかけられたフランス国王・ルイ16世の縁者であるブルボン家の血を引くフェルディナンド・マリアとの間にできた唯一の男子であったことだろう。
革命の象徴たる両家の血を引いた孫が、万が一にでもボナパルト家を継がないことだけが不安だったのではないだろうか。
現にボナパルト家の家長は、シャルルが継いでおり、ジャン・クリストフとの間にいさかいはないらしい。

フランス文明が有する外人部隊の中には、ひょっとしたらルイがいて、偉大な先祖の指揮の下、祖国を守っているのかもしれない。

Pracinhas.pngプラシーニャ(ブラジル) Edit

Panzer.pngパンツァー(ドイツ) Edit

「パンツァー(panzer)」は、ドイツ語で戦車の意。ちなみに英語圏でもドイツ戦車を意味する。

戦車の前身である陸上船はもっぱら敵塹壕を突破するものであったが、終戦後の軍事研究により、陸上船ーー戦車はよりすばやく、より機動的に、さまざまな場所へ戦力を投入する手段として位置づけられた。またその形状は軽戦車・中戦車・重戦車・駆逐戦車・巡航戦車とこまかく分かれ、それぞれの国がドクトリン(と予算)に応じて開発した。

ドイツはWWI敗戦で軍備を禁じられたが、トラクター生産というタテマエをつかったり、ヨーロッパと距離のあったソ連と共同開発するなどして地力を高め、やがて再軍備にこぎつける。戦車開発は訓練用のI号戦車・II号戦車を経て、実戦用のIII号戦車・IV号戦車を配備するまでに至った。
WWII開戦後、フランス戦線では戦車の突破力にものをいわせる電撃戦を仕掛け、わずか6週間でパリ陥落というすさまじい快進撃を見せた。しかし、つづく独ソ戦では傑作機T-34相手にまったく歯がたたず、苦戦を強いられる。これをうけてドイツ勢は対抗策に乗りだし、パンター(Ⅴ号戦車)やティーガー(Ⅵ号戦車)を開発投入した。
特にティーガーは高攻撃力にして高防御性、これに対抗できる戦車は事実上ゼロといってよく、WWII最強の名をほしいままにしている。アメリカ軍M4などは超至近距離で砲撃してもティーガーにキズすらつけられないというレベル差で、連合軍の戦車乗りに恐れられた。そのかわり量産性や燃費は相当悪く、アメリカやソ連の圧倒的物量のまえに膝を折った。

Zero.pngゼロ戦(日本) Edit

「零式艦上戦闘機」通称零戦。(れい戦と呼ぶのが正式・・・というのは俗説。当時の関係者は「ぜろせん」「れいせん」両方の呼び方をしているので、どちらも正しいといえる。)
皇紀二六〇〇年(1940年)になぞらえて名づけられたこの戦闘機は日本海軍と三菱重工業が世に送り出した当時としては世界最新鋭といって過言ではない戦闘機であった。
さて、そんな零戦にはどんな特徴があったのだろうか。色々とあるがここでは三つほど紹介したい。
第一にとても軽いことである。技師たちが総力を結集してエンジンからネジやボルトといった細々とした部品に至るまで軽量化し、無搭載で1.7t。フル装備で2.4tという驚愕の軽さを実現したのだ。
比較として英軍機のスピットファイアと米軍機のF4F-4を見ると(フル装備換算)、スピットファイアが3t。F4F-4が3.6tとゼロ戦より約25%以上重い計算となる。
この軽さは空中戦では回避能力や小回りなどの運動能力に関わるため非常に重要な点である。
第二にとても長く飛び続けることができることである。第一の軽量化にもかかわらず零戦は2200㎞(タンク増槽で3350㎞)という長大な距離を実現している。
また比較として二機をあげるが、スピットファイアで1840㎞、F4F-4で1240㎞(いずれも増槽なし)と少なくとも数百キロの開きがでている。
航続距離の長短は拠点制圧や空母(零戦は基本的に艦載機の為)から拠点へのアクセスのしやすさ、空中での哨戒任務(見張り)などにもかかわるためこれも重要な点である。
第三にとても武装が強いことである。零戦の基本的な武装は機首の7.7ミリ機銃と主翼の下(翼内)にある20ミリ機銃の二種類がそれぞれ二挺である。
なぜ口径の違う機銃を配置するのかといえば多くの敵に対抗しやすくする為である。大口径の機銃は戦艦や大型爆撃機など装甲の厚いものに撃ち、小口径の機銃は戦闘機に撃つという具合に。
第一であげた軽量化の恩恵で自在に動き回ることが出来、優秀なパイロットが操れば忽ち敵機は撃破されていった。
その他にも、零戦は機体の上に風防(平たく言えば操縦士を風から守る為に覆うガラスである)が乗っかった形なので、360度の視界が確保されている事が特徴としてあげられる。

しかし、そんな零戦も課題があった。
課題としてよくあげられるのは装甲の脆弱さである。零戦は上記にあげた三つの利点と引き換えにこの大きな代償を背負うことになった。
(初期の)零戦には機体そのものの外形以外の装甲や防弾装備が一切なく、その外形も1㎜程度の鋼板である。敵の機銃どころか錐や鉈程度のものでも貫通してしまうほど脆いものであった。
まさに「当たらなければどうということは無い」という有様で、日本海軍や技術者たちはこの改良に四苦八苦することになる。
ほかの問題点としては機体の構造の弱さで、これもまた軽量化の犠牲である。軽さばかりを重視して耐久性を軽視した為に試作段階の時で空中分解を起こす事故が起こってしまうほどである。
これに関連して機銃の命中精度の悪さがある。つまり、発砲すれば当然機体は振動するわけであるが、主翼の剛性(金属の持つ曲げる力に対抗する度合い)が弱いために主翼が大きく震えて銃弾がジョウロの水撒きの如く四方八方に飛び散ってしまうのだ。つまりパイロットの腕次第で正確に撃っているつもりでも敵には一つも当たっていないという事態になりかねないという事である。
他にも速度が遅い為(米軍機のP38が630㎞/h、スピットファイアが571㎞/hに対し二一型は533km/hである。それに加え加速性能も悪かった)急降下で逃げ切られ易かったり、無線機の性能が雑音が多すぎて使い物にならないため連携が難しかったなどの欠点がある。

以上の欠点を見ると零戦はまさに「上級者向けの戦闘機」といえる。
戦前の日本の航空隊(戦前の日本において空軍は存在せず陸軍、海軍航空隊という組織が置かれていた)は航空機の軍事的有用性が認められた一次大戦後から、イギリスから航空技術を学んで訓練に生かして技術の向上に取り組んでいた。
また、太平洋戦争の前にも満州事変(1931年)から連なる対中戦争において実践で航空技術に磨きをかけていて、新規の搭乗員たちも歴戦の先輩から教わって技術を高めた。
このような長い経緯があったからこそ岩本徹三氏や坂井三郎氏のような航空機の戦闘に熟達したパイロットが多く輩出され、零戦の欠点をも補う働きができたといえる。零戦の成功はパイロットの技量の高さを証左したものといえるだろう。
しかし、ミッドウェー海戦で惨敗を喫し一部とはいえ熟練したパイロットを失い(撃沈された四隻の空母の乗組員うち、一隻を除いて多くが助かっていたためこの時点ではそれほどの損害ではなかった)、第二次・第三次ソロモン海戦、マリアナ海戦等でじわじわと優秀なパイロット(零戦含む航空機)を失っていった。その為未熟なパイロットが操縦桿を握らざるを得ず、運動能力をいかせないまま撃破されていく結果になった。
この要因に加えてF6Fを始めとする対零戦の戦闘機や戦術が出始めたことや連合軍側も技量や技術を高めていったため零戦は空を制した「ゼロファイター」から「七面鳥」にへと名を落としてしまうこととなる。
海軍もこの状況に手をこまねいていたわけではなく、後期の五二型には防弾装備をつけるなど改善にとりくんでいた。が、覆水盆に返らず。劣勢を覆すには至らなかった。

そして、1944年10月25日。欧米を震え上がらせたかつてのファイターは『神風特攻隊』と名付けられた24名の搭乗員と共にレイテ沖に浮かぶアメリカの機動部隊へ突進することとなる。
これがいわゆる”特攻”のはじまりである。軽空母一隻を沈ませ、他三隻に損害を与える成果を収めるも、栗田中将の謎の反転によって作戦の成功には寄与できなかった。
しかし、この戦果が海軍と国民に希望を与えてしまい、終戦までに4000人と言われる人々が特攻で命を落とすことになった。その中には勿論、零戦の姿もあった。

※比較であげた零戦の数値は全て二一型の情報である。

B17.pngB17(アメリカ) Edit

通称「フライングフォートレス」(空飛ぶ要塞)、総生産12,731機を誇るアメリカ合衆国陸軍の四発爆撃機である。

初飛行は1935年で、「工業地域への戦略爆撃の為の護衛の要らない長距離爆撃機」を目標として開発された。当時は戦争なんてする気がなかった議会や有権者の反発が強く、彼らに対しては「敵国攻撃用ではなく本土防衛用の兵器である」と説明されたらしい。ちゃんとごまかし切れたのだろうか。

第二次世界大戦で活躍の場が与えられたB-17シリーズ(改修型がいくつもある)は欧州・太平洋の両面で活躍した。その長大な航続距離やタフネスで本来の目的である戦略爆撃や基地爆撃から艦船攻撃、偵察、哨戒、救難まで何でもこなした。
やたらと堅く、エンジンが一つ二つ止まっても平気で飛び続けたため撃墜に苦労したそうだ。肉薄して大口径機関砲を叩き込んだり時には体当たりまでして撃墜することもあった。本ゲームにおける特性「回避」はその辺りを考慮されたものだろう。
太平洋では中盤頃からより航続距離の長いB-24やB-29にその座を譲りメインではなくなっていったが、欧州では活躍を続けて連合国の勝利に貢献した。

余談ではあるが、本機は1968年までブラジル空軍で使用されていた。

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*1 はやくも1750年代にはカナダ地域インディアンですら馬で狩猟をするようになった
*2 このうち入植者はケンタッキー銃という先込め銃のため。射程と精度はいいが装填に手間がかかり、また静止して狙いをつける必要があった
*3 生きたまま生皮を剥がされる、胎児ごと腹を突かれるなど、酸鼻を極めた
*4 このうち何人かは身請けされてふたたび白人の世界へと戻り、貴重な証言をいまに伝えている。